終戦前後の地図・航空測量史 

(2)東京進駐以前の第64工兵地形大隊〔沖縄戦まで〕

@ 第64工兵地形大隊についてのHPを発見!
第64工兵地形大隊はどこで発足し、太平洋戦争中はどこでどの様な活動をし終戦を迎えて伊勢丹に進駐するまでの間の歴史を知りたかったのですがそれに関する資料が見つからずあきらめかけていた時偶然にウェーブ上の検索で英語版の第64工兵地形大隊についての歴史の記載を見つける事が出来たのでした。
自動翻訳を参考にし自己流に訳文を作成してみました。

何分語学の知識が無いものですからかなり不正確な日本語になっています。
その点をご理解いただきまして読んでただければ幸いです。なおどなたか正確に訳していただければと願っております。

                     【 第64工兵地形大隊の歴史 (その1)】
              
(Ethiopia-United States Mapping Mission HPより)

1940年(昭和15年)2月にこの地形中隊は第29工兵地形大隊及び第4戦闘工兵の将校と下士官を中核として作られた。第64工兵地形中隊に任命されました。1940年の夏はルイジアナで地図作成の演習が行なわれました。1941年の夏も第64中隊は同じ様に演習していました。

1941年(昭和16年)12月に真珠湾に対して日本の攻撃がありました。そして1942年(昭和17年)2月に部隊は海外への移動に備えてオード駐屯地(カリフォルニア)への汽車に乗せられました。

1942年(昭和17年)6月22日に第64工兵地形中隊はサンフランシスコから軍艦プレジデント・ジョンソンに乗ってハワイへ航海した。スコーフィールド駐屯地(ハワイ)での主な仕事は、真珠湾の軍事施設防衛の為の地図を作っていた。その年の9月にベロバー駐屯地(テキサス)の第30工兵地形大隊の幹部達によって、新しい部隊として第651工兵地形大隊がマッキー駐屯地(バージニア)に作られました。最初の年第651隊は基礎的地図製作技術教育が行なわれ、軍事地図を図化し編集しそして印刷し地図を完成させました。1943年9月に第651隊は模擬戦争状況で地図を作る体験をする為にモハーベ砂漠(カリフォルニア)に行きました。そして五ヵ月後シアトル(ワシントン)の港に移動した。

第64工兵技術大隊の第三のメンバーとなる、第1633航空写真測量小隊は1943年11月5日ポートランド(オレゴン)で編成された。そして第64工兵技術大隊に配属されました。またポートランド(オレゴン)の第29工兵地形大隊が隊員を供出した。それからの9ヶ月の訓練期間はワシントン州の港湾防衛システムの為にムルチプレックスにより原図作りに専念しました。1944年8月13日にスコーフィールド駐屯地(ハワイ)に8日遅れで到着した小隊は、第64工兵地形大隊に配属されました。一ヶ月以内に小隊は小笠原諸島の原図を作成して、硫黄島の航空写真から粘土で模型作成を試みた。

第651工兵地形大隊が1944年4月にハワイに着いた時、第64工兵地形大隊に統合されました。第1633航空写真測量小隊と共に新しい部隊は第64工兵地形大隊と呼ばれる事になりました。

【 第64工兵地形大隊の編成完了までの変遷表 】
上記記載の第29工兵地形大隊から中隊が設立されハワイに第64工兵地形大隊が
編成されるまでの経緯ををまとめてみました。
                        【 第64工兵地形大隊の歴史 (その2)】

第64工兵地形大隊の即時な技術的任務はマリアナ及びキャロライン諸島に対する、陸海軍・海兵隊共同攻撃軍の為に地図を作ることであった。テニアン・グアム・サイパンの作戦用の地図、地形偵察及び海図が作られ450万枚が複製された。その後1944年6月に仕事はヤップ・ウリチ・パラオ各島の地図作成が始まった。

大隊の司令官は中部太平洋基地軍幕僚に組み入れられ、司令部の中で全ての地図製作設備が部隊に引き継ぎられ、そして二つの最優先の仕事が引き継ぎました。それはフィリピン及び硫黄島区域の18万枚の地図作成作業であった。次の作業は沖縄進攻作戦の為に1136種類の地図が写真測量によって作られ、400万枚の地図が複製された。れらの作業を完了して、第64工兵地形大隊は軍艦ロッキンガムに乗り週間後に海軍ニミッツ将軍率いるグアムの前線司令部に着いた。

1944年8月1日に第64工兵地形大隊の60人の下士官及び3人の将校が、臨時に写真測量工兵分遣隊を形成し、XXIV軍団(陸軍)に配属されました。分遣隊は軍艦プレジデント・ヘイズに乗って真珠湾を出航し未知の目的地に向った。エニウェトク島に寄った後10月3日にマヌス島に到着した。(ここはフィリピンのレイテ島に進攻する為の出発点であった)レイテ島の地図が完成した時に、XXIV軍団の一員である分遣隊はこの戦争で最後の重要な作戦である沖縄戦役に参加した。そして1945年4月20日に上陸して7月までに地図を作るのは完了した。それらがハワイを去って11ヶ月後に分遣隊は1945年8月13日にグアムの第64工兵大隊に再統合した。

分遣隊がいない間に第64工兵地形大隊はその作戦基地を設立させる為に従事した。1944年4月15日までに作戦本部・航空写真測量・複製に関する大隊の技術装備・そして地図配送部門が、アメリカの外では最大の海軍本部中のカマボコ型建物に収容された。

日本人が守っていた沖縄戦闘区域の5枚の地図を10万枚複写する作業は第10陸軍砲兵隊の為に48時間で引き渡され終了した。陸軍航空隊と沿岸警備隊からの追加任務として、種子島と甑島に関する2つの新しい企画が始められた。
(注) 沿岸警備隊は米運輸省の一部門であるが、戦時には米海軍の指揮下に入る。

4月の間に合計235種類の図面と362万枚の図面を複写しました。5月は初めての写真測量法を採り入れた。6月1日までに装った優先的配備をし、1945年8月に広島と長崎の原爆投下の後に日本の降伏まで続いた。

1945年10月に、第64工兵地形大隊は日本の占領軍の一部になされ、東京の西部・新宿地区の伊勢丹デパートの3・4・5・6階で地図作成と航空写真測量作業を継続した。

【 ハワイから東京(伊勢丹)までの変遷表 】
ハワイ駐屯地の第64工兵技術大隊


【グーグルマップ:ハワイ・オアフ島地図より】
ハワイ州の州都ホノルルがあるオワフ島のほぼ中央高原部にある。20世紀初頭から約100年の歴史ある米陸軍の基地である。

左図でわかる様に真珠湾にも程近い場所にあり、日本軍の真珠湾攻撃後の昭和17(1942年)年6月に第64工兵地形中隊として進駐した。その後グアム島に移動するまでの約2年間、この地で各部隊と統合を続けて大隊として成長していった。

この間に戦争の進捗に沿って各種作戦用地図の作成に従事した。主なものはテニアン島・グアム島・サイパン島・ヤップ島・ウリチ島・パラオ島・フィリピン・硫黄島等の地図を作成していった。
    



A 硫黄島の地図!
          (硫黄島の1/1万地図

平成19年5月のネット検索で発見したアメリカの骨董品ネット販売されていた地図です。
(現在は掲載されておらず、$1500の値が付いていた。)

「この地図は耐水性の紙に印刷されている」と記載されている。また「戦闘地図は左にあり、地形図は右にある。」とも記載があり下の写真の作成記録は地形図に書かれているものと思われます。(攻撃明示方眼線の記載がない)

縮尺についての記載がないので不明であるが複数の情報から1/1万地図ではないかと想像する。
(下記にその情報について記載した。)
      

【この地図は1944年(昭和19年)8月19日と9月1日に撮影された航空写真を基にして第64工兵地形大隊が11月に作成した事が記載されている。】


米軍戦闘地図 「Iwo Jima」
「Original Historical Autographs」HPより
(ネットオークションに出品されていたが現在は掲載なし)
        (硫黄島米軍地図の縮尺について)

@ 米軍は上陸区分を500ヤード(457.2メートル)ごとに7つの区画に分割し、グリーン・レッド・イエロー・ブルー等の名称を記載し上陸部隊の担当範囲を明記していた。上記の地図を見ると右図の上陸担当区分線が記載されている事が解る。

A 沖縄上陸作戦に使用された1/1万特殊地図と呼ばれる「OKINAWA-SHIMA」にも上陸作戦担当区分がグリーン・ブラック等の名称で記載されている。(後に記載する予定)

B 2.5万戦術用地図「IE-SHIMA SW」と呼ばれる地図には上陸作戦担当区分が記載されていない。(後に記載する予定)

Cネット販売情報に”3.75インチ×3.75インチの正方眼毎に攻撃目標座標番号が付けられている。”との記載がある。図上3.75インチ(実際は3.61インチ)は1000ヤード(となります。また同じく情報に”図面の大きさは40インチ×28インチ(101.6cm×71.1cm)”とあり、南北方向に1/1万地図上では1000ヤード方眼が約11個記載できる事になる。
上記の米軍戦闘地図 「Iwo Jima」には10個の方眼が記載され、余白をいれるとちょうどいい大きさとなる。

D日本軍が作成した1/1地形図「硫黄島」(下図)が国立国会図書館に保存されており、その図面寸法が約90cm×75cmである事からすると余白部分の大きさの違いを考慮して、やはり米軍地図も1/1万地図であると想像できる。

以上の結果この米軍地図の縮尺は1/1万地図に間違いないと思われます。


「Wikipedia」硫黄島 デタッチメント作戦第一計画より 
【硫黄島の砲爆撃標定地図】



アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦  河津幸英著 
アリアドネ企画 2003年刊 横浜市立図書館蔵より
   【メッシュ地図は硫黄島の地図から始まった!】

左記の「アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦」に上記メッシュ1/1万地図はこの硫黄島の地図から導入した事が記載されている。

それによると『過去の経験から生まれたものの一つに砲爆撃標定地図がある。これまでの砲爆撃量に比べて敵陣の破壊効果が非常に低かった。原因は島全体に大量の砲弾を大まかにバラ撒いていたからである。そこで地図上において硫黄島を碁盤の目の様に細かく区画化(数字とアルファベットの座標添付)し、特定の目標を適格・迅速に破壊する仕組みを導入したのである。』と書かれている。

『例えばある砲爆撃標定地図では、数字の付された大区画は1000ヤード四方に区切られ、その中をされに25個の小区画に細分化し、AからYまでのアルファベット記号を付けていた。

この地図を使えば指揮官や上陸部隊は、砲爆撃を要請する際、予め132Rなどと連絡する。これだけで攻撃部隊(空母艦載機、戦艦、陸に上がった砲兵隊)は、摺鉢山の砲台に爆弾と砲弾を集中できる事になる。

また逆に148Qは攻撃不要と連絡すれば、148Q区画にある陣地の破壊が確認された事になり、無駄な砲爆撃を繰り返さないで済むのである。』

この様に米軍はこれまでの経験則から学んでより合理的な地図を作りだしていったのである。


     【Battle Of IWO JIMA Air Support Chart,
            WWII USAF 1945 より】
           航空部隊支援地図

図左上に(confidential)〔機密〕の記載があり、昭和19年(1944年)11月64th Engr.Top.Bnが1/2万の縮尺で作成された事になっている。おそらく航空機による爆撃・攻撃用に作成された地図ではないかと思われる。

             (地図表現の特徴)
1.地形表現が等高線でなく、起伏の大きな箇所のみ茶色の”ケバ”表現記載されている。(航空機からの目視しやすい為か)
2.爆撃目標の表示区分が詳細に記載されている。(下記の凡例を参照)
3.方眼線が1/2.5万地図と統一されている。(地上軍と航空部隊との連携がうかがえる)
   【硫黄島〜父島間の米軍飛行隊航法地図】

 

この地図も第64工兵技術大隊が作成した事が確認できる。

陸域図だけでなく航空図も作成していた様だ。その為使用目的に適した図法・縮尺・色彩で作られて地図の一例である。
海図以外の多種多用な地図を作成していたのであろう。

「BONIN IS」と地図に記載されているが、これは英語で小笠原群島をBonin Islandsと言われていた。「Bonin Islands」は江戸時代の無人島(ぶにんしま、ぶにんじま)という呼び名に由来する様です。


        【Tha Capu  Fear Museum HPより】
硫黄島の立体地図模型
 米軍は上陸前に地形模型で情報を共有化していた!

開戦当初米軍は充分な準備が出来ない時期があったが、直ぐに体制を立て直して戦争遂行に必要な情報収集・伝達に関し、組織的システムを構築していった。

第64工兵地形大隊の歴史書に硫黄島の地形模型を粘土で作成した事が書かれているが、米軍の記録写真に艦船内での上陸前ブリーフィングにおいて硫黄島の地形模型が使用されている事が確認できる。

写真から判断すると非常に詳細な地図模型である事が見て取れる。おそらく航空写真や潜水艦による接近写真などによりより実際の自然状況を忠実に再現されていると思われます。

地形図を読めない兵隊にも米軍は立体地図模型を作成し、島の地形や日本軍の防御施設の配置状況を理解できる様にし、部隊全体の情報の共有化に力点をおいていた。

第64工兵地形大隊の歴史書から硫黄島の立体地図模型の作成を試みたと書かれているところから、おそらく立体地図模型を実際の作戦に使用したのこの硫黄島上陸作戦からではないかと思われる。


硫黄島上陸作戦前のブリーフィングの模様
(地図模型を使用し、右側には地図が貼ってある)
【写真集「硫黄島」雑誌「丸」編集部編 
光文社 2007年発行 横浜市立図書館蔵より】


対日戦争においても多数の地形模型が作成されていた。

【アメリカ軍の日本焦土作戦  太平洋戦争研究会編 
平成15年 河出書房新社発行 横浜市図書館蔵より】
    〔エピソード〕 英軍模型製作部の話
  (写真諜報 スミス著 みすず書房 昭和37年刊より)

1942年(昭和17年)ドイツ軍に占領されていたフランスのブルネバァルでの急襲作戦で、英軍模型製作部が登場することになった。

模型部の部屋の中は、電動のこぎりがうなる音や、ハンマーを叩く音で騒々しかった。大きく拡大された地図から輪郭をとり、ボール紙にのせて型を切り取り、裏打ちをして所定の位置に釘付けして固定させた。次に電動のみで表面をスムーズにし、地面になる部分には壊れない特殊なプラスチック材を使用した。

戦争中を通じて、数知れぬ作戦に重大な貢献をした模型製作者の仕事は、単なる機械的な仕事ははるかに違った性格のものだった。

彼らは専門の判読者と同じ程度の判読能力をもっていたばかりか、それを別の言語に翻訳した。すなわち報告書の代わりにがっちりと立体の模型に仕上げたのである。

(ヨーロッパ戦線ではかなり早い段階から盛んに地図模型が作成されていた様である。)
日本軍も作っていた硫黄島1/1地形図
                 空中写真測図要図小笠原群島1/1万地形図「硫黄島」

 

     「昭和19年測図(空中写真測図・陸地測量部) 撮影は昭和19年8月 略集成法にて図化する。」との記載あり
                           国立国会図書館蔵

現在の国土地理院発行の1/2.5万地形図「硫黄島」と比べると地形的形状がかなり異なっている。縮尺は異なるが精密な図化機で地形描画してある1/2.5万とあまりにも地形が違いすぎる事が不思議である。

「略集成法にて図化」と記載されているが、【写真測量:篠邦彦著 山海堂発行】によると略集成法とは撮影された生の写真の印画をそのまま地物によって貼り合わせていく方法で作成した写真地図とある。この地図はおそらく航空写真を貼り合わせた物であり、これを基に肉眼実体視しながら等高線を書いたものではないかと想像するが、実際はどの様な方法で作られたかは疑問である。図化機で図化したものではないようだ。

「位置の基点は昭和19年製版1/5万図陸海編合図による」と記載されているが、この時期沖縄の南西諸島や奄美諸島等において参謀本部で陸地測量部の地形図と水路部の海図を基にした等深線と水深高が一緒に記入された地図が発行されている。
後で種子島の例を記載する予定です。(ちなみに種子島の地図には昭和19年5月7日の印が押されていた)
                    ※ 米軍のサイパン島上陸が昭和19年6月15日である


1/1万地形図「硫黄島」  千鳥飛行場周辺部分】
海岸から飛行場に駆けてのギザギザ線は塹壕なのか?


【石井顕勇「硫黄島探訪」http://www.iwojima.jp/】より掲載
軍令部水路部作成1/1万硫黄島地図
千鳥飛行場周辺部分


【空爆をうける千鳥飛行場の日本軍機:上記地図の位置
  (硫黄島栗林忠道大将の教訓 小室直樹著   
ワック梶@2007年発行 横浜市図書館蔵より)


【おそらく第64工兵技術大隊が作成した
1/1万地図ではないかと思われます】
 (硫黄島栗林忠道大将の教訓 小室直樹著より)
       日本軍二枚の硫黄島地図の謎

太平洋戦争が始まっても日本にとって硫黄島防備は監視哨的な意味合いしか有していなかった。しかし昭和19年中部太平洋情勢が緊迫してきた。その為大本営陸軍部は昭和19年2月に小笠原地区における重要航空基地として位置づけられた。5月に第109師団が編成され、師団長として栗林中将が硫黄島に着任し、海軍も第27航空戦隊を編成した。

@ 昭和19年に1/1万地形図が出来るまで硫黄島には陸地測量部発行の明治44年測図1/5万地形図「硫黄島」のみだった。

A 米軍は水深線まで記載されている陸海共用地図を作成しているのに、日本軍は戦況が切迫した昭和19年になって初めて急遽詳細な地図を陸軍と海軍とが別々の地図を作成している。いかに日本陸軍と海軍の相対した関係が見て取れる。栗林中将が硫黄島から大本営に送った電報に「陸海軍の縄張主義を一掃し両者を一元的ならしむるを根本問題とす」と指摘している。

B 映画「硫黄島からの手紙」では水路部作成1/1万硫黄島地図が司令部に掲げられていたが、陸軍が主導する守備隊に海軍が作成した陸上部が不正確な地図(基本的には海図であるので陸部は概略で良いのであるが!)がある事が不可解である。映画制作時に調査したのであろうから間違いないとは思われるが疑問である。

C 8月9日大本営から陸海軍の作戦部長が視察に来島。(この時に撮影か?)また10月11月12月と本土との連絡便がありと記録されている。〔硫黄島栗林忠道大将の教訓に記載あり〕よって陸地測量部作成の1/1万地形図が東京から硫黄島へ送られたかは不明である。今後の検証を待ちたい。


【石井顕勇「硫黄島探訪」http://www.iwojima.jp/】より掲載
軍令部水路部作成1/1万硫黄島地図
昭和19年6月29日作成
映画「硫黄島からの手紙」において使用さていた地図



B 沖縄戦の地図!
第二次世界大戦において米軍最後の戦闘になる沖縄戦では、これまで蓄積した航空写真測量・地図作成技術の
総力を集めて各種の地図類を作成し、各部隊に多種類・多量の地図が送られ作戦行動の中心的情報として利用
されていた事が判る。第64工兵地形大隊がその主な任務を担っていた事が
地図に記載された名称記載がものがたっている。
アイスバーグ作戦計画書 (日本語訳)



【沖縄県史 資料編12 アイスバーグ作戦(和訳編)
 沖縄戦5 沖縄県教育委員会編  
平成13年発行  横浜市立図書館蔵】
   アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)用地図

第64工兵地形大隊が次に大規模に作成した地図がアイスバーグ作戦用の地図類であった。

この作戦は米第10軍の沖縄進攻作戦計画書であり、第10軍の任務や作戦全般にわたって記載されたものである。

この作戦計画書が作成されてのは昭和20年(1945年)1月6日で、実際に上陸作戦が実施された4月より三ヶ月前であった。そしてこの作戦に使われる地図類が作成され始めたのは、更に逆戻る事三ヶ月前あたりの10月頃だと思われます。

【読谷村史「戦時記録」下巻 第三節『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山】よるとB−29による航空写真撮影の一番古い撮影日は昭和19年9月10日になっていて、その次が10月10日となっている。おそらく第64工兵地形大隊史によるとハワイで硫黄島の地図を作成した後、沖縄上陸作戦用地図を作成したとなっているのでグアム島に移動直前に1/2.5万戦術用地図が図化・編集・印刷の一連作業を完了し、わずかな日数で昭和19年(1944年)中に発行されたものと思われる。

しかし1/1万の特殊地図は昭和20年(1945年)2月28日発行となっているのでおそらくこれはグアム島に移動後に作成されたものではないかと思われます。
アイスバーグ作戦計画書 第8章(地図及び写真)



                     【沖縄戦(アイスバーグ作戦)で作成された地図の種類】
                           (上記記載の内容をまとめてみました)
   〔作戦地図〕
      (1) 1/1万地図 (特殊地図)
          1.重要地区(上陸作戦と地上戦が予想されて地区ではないかと思われます)について作成された地図。
          2.強襲軍(上陸部隊)には大量に、その他の部隊には計画用に配布された。
          3.裏面には同縮尺の航空写真による写真図が印刷されている。

      (2) 1/2.5万地図 (戦術用地図)
          1.沖縄全域について作成された。
          2.裏面には同縮尺の航空写真による写真図が印刷されている。

      (3) 1/5万地図 (上記計画書には記載されていない→実際には使用されなかったのでは?)
          1.沖縄全域について作成されたと思われる。
           @ モノクロ地図
             戦前に日本の陸地測量部作成の1/5万地形図を使用し、ローマ字地名を記載し、グリッド線を追記
             した地図
           A カラー地図
             昭和19年9月29日にB-29による最初の撮影した航空写真から図化した地図。ただし高高度(約1800
             mから3200m)からの撮影の為およそ半分(沖縄島北部)は雲によって白地図状態の部分がある。
            〔沖縄県公文書館紀要 第4・5号 沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真:源河葉子著を参照〕

      (4) 1/10万地図 (計画地図→写真がない!どの様な地図だか不明
       
  1.用紙二枚にまたがるとあるが不明

      (5) 1/25万地図 (計画地図・オリエンテーション地図→沖縄の当時の地図は見たことはない
          1.おそらく戦前に日本の陸地測量部作成の1/20万帝国図を使用し、ローマ字地名を記載し多色刷りした
           地図だと思われる。

   〔特殊地図〕・・・・・(後で記載する情報ではゴム製の立体地図模型を作成した事が書かれている。))
      (1) 1/2.5万模型
          1.沖縄本島南部地区・・・・・軍団・師団司令部
      (2) 1/1万模型
          1.重要地区・・・・・軍団・師団司令部・連隊・大隊
      (3) 1/7千模型
          1.海浜地区・・・・・軍団・師団司令部 (おそらく上陸部隊用だと思われる)
【沖縄地区地図作成索引図】



(沖縄公文書館HP 「公文書等の記録資料に見る沖縄戦」 アイスバーグ作戦より)
凡例:3628が1/10万の図面番号   3628-Uが1/5万の図面番号   3628-U-SWが1/2.5万の図面番号
(1) 1/1万特殊地図 「OKINAWA-SHIMA」


沖縄県史 資料編12 アイスバーグ作戦 横浜市中央図書館蔵より
「OKINAWA GUNTO」 
1945年2月28日付 読谷飛行場周辺の1/1万 (原資料は読谷村所蔵)
 【1/1万特殊地図「OKINAWA-SHIMAの作成記録】

    

この地図は昭和20年(1945年)1月に太平洋米陸軍傘下の中部太平洋基地軍〔Central Pacific Base Command:CPBC〕所属の第64工兵地形大隊により作成された事が記載されている。

おそらく昭和19年(1944年)9月29日〔マリアナ諸島からB-29による沖縄最初の航空写真撮影であった〕と10月10日〔空母艦載機からの低空の航空写真であり、より詳細な情報を判読する事が出来たものと思われる写真であった〕に撮影した航空写真を基に図化された地図だと思われる。
   1/1万特殊地図「OKINAWA-SHIMAの特徴】

1.図上に1000ヤード(約915m)毎の大メッシュ(黒線)が記入され、更にその大メッシュを25等分して200ヤード(約183m)の小メッシュ(茶色線)で記入されている。

1.大メッシュ線にはおそらくXY平面座標の原点からの距離数値が95.・96・・・等黒色数字で記載され、XY数値の若番数値を合成した番号を大メッシュ番号(7795等)として青色数値で記載されいる。

1.大メッシュを25等分した小メッシュには左上から右に、上から下にかけてA・B・C・・・・とAからYまでのアウファベットが青数字で記載されている。

1.このメッシュは攻撃目標を特定する為に利用されたものである。この地図によって情報を全軍に共有する事が可能とするものである。(硫黄島の地図で実証済みのシステム)

1.上陸部隊の上陸区分線が色とbナ記入され、上陸用舟艇の行動範囲が明記されている。

1.日本軍の軍事施設(トーチカ・小要塞等)が記号化されて表示されている。これ等は航空写真の判読結果より記載された様です。
 1/2.5万戦術用地図「IE-SHIMA SW」


沖縄公文書館HP 「公文書等の記録資料に見る沖縄戦」 アイスバーグ作戦より
昭和19年(1944年)発行
(伊江島は昭和20年4月21日に占領されました。)
  【1/2.5万戦術用地図「IE-SHIMA SW」の作成記録】



この地図は日本の陸軍陸地測量部発行の1/20万帝国図【Iheya-jima】?(1931年発行)を利用し、1944年9月・10月撮影の写真を航空写真測量法で1944年に編纂した。

更に1944年10月10日の航空写真で第1633写真測量小隊がムルチプレックスを使用し写真測量法で作図し1945年1月第64工兵技術大隊が改訂した。

編集したのはワシントンにあるAMS本部で編纂し改訂版を第64工兵地形大隊(グアム島)が作成したのではと思われます。
   【1/2.5万戦術用地図「IE-SHIMA SW」の情報】



           【沖縄県公文書館蔵より】

沖縄県公文書館所蔵の米軍地図は148枚あるそうで、それらの地図の作成記録を確認すると、第64工兵地形大隊の活動記録として貴重になると考えられる。

地図の裏面には地図と照応する空中写真が印刷されている。〕
  【1/2.5万地図「IE-SHIMA SW」拡大図(部分)】



  沖縄公文書館HP 「公文書等の記録資料に見る沖縄戦」 
    アイスバーグ作戦 昭和19年(1944年)発行より
    【1/2.5万地図「IE-SHIMA SWの特徴】

1.1/1万地図と同様に.図上に1000ヤード毎の大メッシュと200ヤード毎の小メッシュが記載され、1/1万地図と統一したメッシュになっている為米軍はどの地図を見ても情報の共有をする事ができた。

(上記攻撃目標明示メッシュは地上砲撃及び艦砲射撃、戦略爆撃に使用され、実際の沖縄戦において、「トンボ(小型偵察機)が上空に来ると必ず艦砲射撃があった」という証言がある)
     〔読谷村史「戦時記録」下巻 第三節より〕

1.1/2.5万地図では上陸部隊の区分線が記入されておらず、上陸作戦以後地上戦が行われた時、戦場の全体像をとられて作戦をたてる際使用したのではないかと思われる。

1.1/1万地図と同様に裏面には同位置の航空写真が印刷され、1000ヤード毎のメッシュ線とローマ字で地名が記載されている。

1.また1/1万地図と同様に日本軍の軍事施設が記号で詳細に記載され、いかに米軍が情報収集に力を入れ、それを多色刷り印刷の地図上に明示し、米軍全体で情報共有を徹底していた事が見て取れます。
(そこまで情報収集したが、日本軍の沖縄住民を巻き込んだ抵抗が激しかったのであろう)
 1/5万地図「NAGO」


沖縄県史 資料編12 アイスバーグ作戦 横浜市中央図書館蔵より
        【空白部のある1/5万米軍地図?】

上記の地図を見て実に不思議な感じを持たれる方も多いのではないかと思いますが、図中右上部の山岳部に等高線が描かれていない部分があります。

その空白部と描かれている部分の等高線を見るとスパット途切れています。私もなぜ白部なのか?と考えたものでした。

その答を記載した資料が見つかりました。それは【沖縄県公文書館研究紀要 第4・5号 沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真の研究 源河葉子著】でした。(源資料は米軍の「G-2 Tenth Army :Intelligence Monograph」より)

それによると、「米軍機が空中写真を最初に撮影したのは昭和19年9月29日であった。B-29での撮影は高度が6000m〜9000mと高高度であった為、沖縄本島全域を「撮影したものの撮影地域のおよそ半分(主に沖縄島北部)は雲のためはっきり捉えることが出来なかった。この為最初に作製・配布された沖縄島の作戦地図は、白地図状態の部分がかなりあった。」

当時日本の陸地測量部発行の1/5万地形図を手に入れていたので、それを使用してその白部を暫定的に埋めておく事も出来たのであるが、米軍はそれを良しとしないで空白部としたのでした。

日本軍と米軍の地図に対する考え方の相違がはっきりと現れた事象として、非常に重要な発見であったと思われます。
    【航空写真撮影前に利用した日本の地形図】

  
 (米軍1/5万地図  「Fujisawa」  1944年発行 
             国会図書館蔵より)

上図は沖縄戦後、関東上陸作戦であるコルネット作戦用に作成された、日本の陸地測量部が作成した1/5万「藤沢」図を利用し(米軍は戦前に既に日本全土の地形図を収集していた様である)、紫色で地名をローマ字で記載、さらに1Kmのメッシュ線を記載した地図である。

「沖縄県公文書館研究紀要」に沖縄戦においても上記のカラー1/5万地図より以前に上図と同じ様なモノクロ図(陸地測量部作成図)に紫色でローマ字地名を追記し・1Kmのメッシュ線を記載した1/5万地図が使用された事が書かれている。

この様式の地図はワシントンの米陸軍地図局本部で作成されていた事が作成記録に書かれていて、戦地地図作成部隊である第64工兵技術大隊と役割分担していた様である。
沖縄戦における立体地図模型
【立体地図模型を使用しての作戦会議】


アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦  河津幸英著 
アリアドネ企画 2003年刊 横浜市立図書館蔵より
(写真に写っている立体地図模型の場所は上記1/1万地図「読谷村飛行場付近」と同じ位置あたりの様だ!)
            【ゴム製立体地図模型】

上記「アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦」によると米軍は撮影した航空写真を基に各種の地図を作成した。そしてその航空写真と地図を利用してゴム製の立体地図模型を作成していた。

それによると『上陸作戦を指導したバックナー中将の遠征部隊(第10軍)は、航空写真を下に、色彩を施したゴム製の立体地形図を多数製作し、上陸作戦を実行する海兵隊と陸軍の両軍団に提供している。

ガイガー少将の第V水陸両用軍団が手に入れた立体地形図は、スケールが1/1万で、配下の各大隊に配布する充分な数があったという。ただなおスケールが大きく、不必要な部分も多かった。

そこで彼らは、独自に海兵隊軍団が担当する上陸地域を拡大した、1/5000スケールのプラ製立体地形図を作成し、作戦の立案に供している。この立体地形図は、地形の凹凸を際立たせるため、高低差を二倍に拡大してあった。』と書かれている。

おそらく上記写真の立体地図模型はゴム製のものではないかと思われる。
 さらにプラスチック製の立体地図もあった事が記載されており、これがプラスチック製の立体地図の原点であったのかも知れない。今後の課題である。

これらの立体地図模型を第64工兵地形大隊が作成したかは不明である。これも今後調べて見たいと思っている。
 【既に欧州戦線で使われていたゴム製立体地図模型】

  
D-DAY史上最大の上陸作戦の記録 ウィル ファウラー著          原書房 2004年刊  横浜市立図書館蔵より
(いかにもゴム製と判りますね!しなやかで運搬し易そう!)

連合軍兵士達に上陸地点付近の地形を熟知してもらう為に、ノルマンディー上陸作戦では合計340個にものぼる合成ゴムの模型が大量生産された
   (写真諜報 スミス著 みすず書房 昭和37年刊より)

この当時欧州各国(ドイツも含む)が立体地図の先進国で盛んにゴム製立体地図が作られたそうです。
   (ニシムラ精密地形模型の元代表:大道寺 基氏のお話
沖縄本島上陸後の第64工兵技術大隊
【当初の作戦計画書】 (昭和20年1月6日付)


(当初は第64工兵地形大隊本体が沖縄に上陸し以後の沖縄戦の進捗による地図作成をする事になっていた。)

【変更後の文書】 (昭和20年2月14日付)


(一ヶ月後に作戦命令に変更があり、上陸作戦以後に第64工兵地形大隊本隊ではなく、
第3020及び第545地図作成中隊、軍団第1634写真地図作成小隊が沖縄上陸作戦に
あたる事となったと訂正された。)

これ部隊が分遣隊としてマヌス島の第24軍団に派遣された部隊が沖縄戦に
投入される事になったのでした。
(第64工兵地形大隊の歴史書に記載あり)

【沖縄戦における地図作成の役割分担】
計画段階の地図作成作業 → 第64工兵地形大隊(本隊)グアム
実戦段階の地図作成作業 → 第3020及び第545地図作成中隊、軍団第1634写真地図作成小隊(分遣隊)

第64工兵地形大隊本隊は本土上陸作戦であるダウンフォール作戦に向け
以後の日本各地の地図作成作業に専念する為ではなかったかと思われる。
沖縄戦における地図利用状況写真


標的を決め、地図に記す情報部の製図工。そのほかに進路を示したり海空共同救助基地を設置するなど、任務に就くパイロットの助けとなるすべての情報を付記する。写真は第318戦闘機情報局で作業中のフラナガン二等軍曹。伊江島。


戦場で沖縄南部の戦況地図を検討する海兵隊の大佐と部下の情報将校。
【撮 影 日】 1945年 5月 8日〜 9日

(両写真とも沖縄県公文書館HPより米国国立公文書館から収集した沖縄戦に関する米海兵隊写真)

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〔オリンピック作戦用戦術地図「種子島の1/2.5万地図」〕
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