昔の鉄道の話題から

【横浜貿易新報の記事より】

(5) 大師電気鉄道・開通日広告は語る!!


当時日本の最先端鉄道だった
 
    横浜貿易新報  明治32年1月21日


1.本日二十一日午前十時より営業運転を開始する。

1.毎日午前九時より午後六時迄・日曜日、大祭日及毎月一日十五日二十日二十一日は午前八時より午後八時迄間断なく毎五分間毎に発車す。

1.川崎大師間賃銭 並等五銭・上等拾銭なり。

1.乗客の便利を計り川崎官設停車場より川崎町乗場迄の人力車賃を四銭と定め、人力車と電車との連絡切符を発売す。

1.電車乗場は勿論官設停車場前の各茶店に於いて切符を発売す。

1.関東に於ける電気鉄道の嚆矢(注・最初の意味)にして日本国中に於ける広軌鉄道の元祖也。

1.連結車を附して一回に二輌づつを運転する全国唯一の電気鉄道なり。

1.二十五馬力の発動機二個を備えたる五十人乗りの宏大なる客車にして構造装飾実に善美を盡せり。

1.夜間各乗場は勿論車体に数個の電燈を点ずるにより一層美麗なり。

1.京浜間電気鉄道を全通するの目的を有する前途有望の電気鉄道なり。
 たった三ヶ月の大師電気鉄道!!
    横浜貿易新報  明治32年4月27日

上記広告の歌い文句にある様に、日本初の広軌鉄道を最初から売物にしていた事が判ります。
又日本初の二輌連結電車を走らせたり、車内の照明に電燈を使用し(当時官設鉄道はランプ)たり、
さらに京浜間の都市間鉄道を目指していた事が鮮明に書かれています!!

以上の事から広軌したのは官設鉄道に対抗して、京浜間都市間輸送の競争を意識しての事であったのでは
ないでしょうか。

そしてたった三ヶ月で大師電気鉄道は京浜電気鉄道に社名を変更したのでした。
何と短命な会社名だったのでしょう!!
なぜ最初から京浜電気鉄道にしなかったのでしょうか?また疑問が残りますね?!

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