昔の鉄道の話題から

(6) 全ての鉄道は横浜を目指す!!
 
(山手線目的は横浜へ貨物を運ぶ為だった!!)

          【上野駅まで開通】

明治16年7月28日に日本鉄道(上野〜熊谷)が開通し、上野駅は東北日本への東京の玄関口となった。
しかし上野から先新橋までの区間鉄道が延びる事は当時の事情からして難しかった。その理由は

@上野から先は既に江戸時代からの町屋が建て込んでいた。
A江戸時代の埋立地で地盤が軟弱な為、当時の技術では建設が難しかった。

          【鉄道は貨物輸送が主】

当時鉄道の果たす役割の中で貨物輸送の方が重要であった。特に当時財政事情が悪かった明治新政府は輸出によって外貨を稼ぐ必要があったのです。

当時の日本の輸出品は限られたもので、その中で一番の輸出品は“生糸”でした。その生糸の主な生産地は北関東・東北・上信越等であったのです。

           【生糸を横浜へ】

その生糸を当時唯一の貿易港であった横浜に運ぶ為、政府は早急に横浜までの鉄道を接続する必要がありました。

その時点で開通していた鉄道は横浜側は新橋まで、東北側は上野まででした。当然その間を繋いでしまえば良いわけですが、上記の様な理由からその区間の鉄道を早急に開通させる事は不可能だったのでした。

そこで出来るだけ早く・安価で建設する事が出来るルートで東北と横浜を結ぶ事を考えて実行されたのが日本鉄道の赤羽〜品川までの現在の山手線の原型がスタートであったのでした。

        【至急に安い工事費で横浜へ】

当時そのルート周辺は江戸時代からの旧市街地を離れて人家は殆どなく畑・水田・林地等で、地形的にも武蔵野台地で地盤の安定している所が選ばれたのでしょう。

その中でも新宿・渋谷附近を通過する事が一つの条件ではあったのではないかと思っています。そうすると現在のルートがほぼ最善であったのでしょう。

そうして明治18年3月1日に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開通しました。決して環状運転する為とかで考えて創られたものではなく、早急に横浜へ生糸を運搬する為だったのでした。


       【日本鉄道豊島線の謎】

田端〜池袋間(豊島線)はどの様な理由で作られたのでしょうか?当然この区間も環状線目的で作られてのではなく、やはりこの区間も横浜に関係してくるのです。

それはまず日本鉄道が常磐海岸線と云う名称で呼ばれ、明治30年2月25日福島県平まで開通した現在の常磐線にその訳があったのです。

常磐海岸線の重要な目的は常磐炭鉱から出る石炭を東京方面に運ぶ為に作られたのでした。今の常磐線は三河島から大きくカーブして日暮里で山手線に接続していますね。しかし開通当時常磐海岸線は三河島からまっすぐ田端に達していたのです。田端駅は常磐海岸線と東北線との接続駅として開業したのです。

さらに三河島からの線路は上野方向に向かっておらず赤羽方向に向かって列車は到着したのでした。上野にはここでスイッチバックして上野に向かったそうです。またしてもその訳は石炭を利用する工場が王子・赤羽周辺に数多くあった為だったそうです。

       【またまた横浜へ!今度は石炭を】

当時船の燃料は石炭でした。当然大量の石炭需要が日本最大の横浜港にあったのでしょう。やはりその石炭を最短距離で輸送する必要があったのでした。そこで明治36年4月1日田端〜池袋間(日本鉄道豊島線)が開通し常磐炭鉱の石炭がスイッチバックなしで、田端〜池袋〜大崎〜大森〜横浜へと運ばれたのでした。

(注1)
明治34年2月18日軍用短絡線として建設された日本鉄道大崎付近から官設鉄道大井付近を結ぶ大井支線が官設鉄道の「大井支線」として開通していた。

(注2)ちなみに現在の三河島から大きくカーブして日暮里を結ぶ短絡線が開通して直接上野駅に列車が乗り入れられる様になったのは明治38年4月1日だったそうです。

ただし開通当時の田端に達していた路線は現在も貨物線として利用されています。(こちらが先輩だったのですね!!)



1/2万地形図「下谷区」明治30年修正 
「この駅名に問題あり」 楠原佑介著  草思社発行より

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