地下鉄日比谷線の上に謎の映画館!?

(2) 地下鉄日比谷線の建設

「三原橋地下街」がある所をどの様にして建設していったのでしょうか?

  いよいよ地下鉄日比谷線着工!!
問題の箇所はここだ!!



【「昭文社 マップル」参照】


【グーグル・アース衛星写真】参照


日比谷線車両 03系
【東京メトロ梶@HPより】
                            「建設史」を発見!

建設産業図書館の蔵書検索で「日比谷線建設史」がある事を発見、さっそく閲覧に出掛け行きました。

「日比谷線建設史」によると昭和37年9月にこの区間が着工された。その内容を下記に記載します。

【昭和通りのすぐ西寄りにあるかつての十三間掘はすでに埋立られてビルが立ち並んでいたが、この掘のかつての三原橋の構造がそのまま残置されていた。この橋は幅員37m、橋長33m、3径間連続の鋼板桁橋で、鉄筋コンクリート床版上に都電が通っており、その橋下には二つの映画館のほか飲食店、理髪店など8軒の店舗があった。

地下3階構造の日比谷線構築はこの橋梁の真下を通過する。この構築の地下一階は東銀座・日比谷間のコンコースとなり、地下二階は東京都で将来三原橋を撤去する時(注1橋下および橋台敷き付近に居を構えている諸店舗を移転収用するための施設として使用し、地下三階は日比谷線の隧道部分となる計画である。この様に地下二階部分は東京都施設(謎の地下空間)であるが、銀座四丁目交差点付近までの同施設を営団が受託施工した。

工事中も橋上の交通を維持することを原則としたので、橋下からこれを仮受けする工法をとった。したがって橋下で営業している映画館を初め全店舗の一時立退きが必要であった。ししこれら店舗の権利関係がきわめて複雑であって、その折衝に予想以上の日時を要し難行したが、昭和38年3月ようやく全店舗の立退きを完了して工事にとりかかった。】

(注1)地下鉄建設の認可条件として昭和37年8月31日付けの建設大臣名で「三原橋附近の工事の実施に当たっては旧三原橋橋梁を撤去する事。また当該工事の方法及び費用負担については、東京都と協議すること。」して交通営団に命令している。しかし今現在に至ってもこの命令は実行されていないのであります!!


【日比谷線線路断面図】

「日比谷線建設史」
昭和44年発行  帝都高速度交通営団編纂
三原橋地下街部分工事概要

1.      継ぎ鉄杭打ち工事

     隧道構造部分にあたる橋下店舗の床コンクリートを壊し、床下約5mまで掘削した
      ここは河川であったので床下の約3.5m間は全くのヘドロで、この搬出にかなり手間取った。

2.      橋梁仮受け工事

  仮受け杭を鋼材で結び、その頂部にI 形鋼を架け渡し、これに橋桁を受け替えた。    
  受け替えは50tオイルジャッキ10台を同時にかけて、橋梁に変形をきたさない程度にふかし上げた。

3. 橋台、橋脚の取壊し及び掘削工事

     仮受け完了後、地下鉄構築が築造される部分の橋台、橋脚を取壊して掘削した。
    泥土から下
の地質 は比較的硬い砂質であったので、仮受け杭の支持力は十分にあり、
    橋梁の沈下は認められなかった。

4. 構築築造ならびに橋台、橋脚の復旧工事

    掘削完了後、下床版、側壁、上床版の順序で構築を築造した。構築完成後その橋台、
  橋脚を復旧した
。その後、橋下店舗の天井及び床コンクリート等を復旧して工事を終了した。

上記工事記録を見ると昭和27年建設の地下街は橋桁を残して一度取壊されて、全ての地下鉄工事を終了した時点で再び地下街を復旧している事がはっきり判ります。

           またやはり昭和4年完成した三原橋の橋桁はそのまま現在も取壊される事なく、
                     今も生きているのです。

今も残る三原橋橋桁



「日比谷線建設史」より
【三原橋仮受け施工図・縦断図】

上図のピンク色部分が現在も生きている三原橋橋桁です。また斜線が入っている部分が撤去された橋台・橋脚です。
橋桁のカーブ形状が良く見て取れますね!!


「日比谷線建設史」より
【三原橋仮受け施工図・断面図】
着色部分は完成時の形状になります!
地下通路に見る映画館との関係


「日比谷線建設史」 高速度交通営団発行より

【三原橋周辺縦断図】



地下街撤去後(予定)の地下通路形状予想図


【写真1】
地下街が取壊される予定だった証拠!!

東銀座駅側から直ぐにある上り階段で段差は2m以上ある急なものです(A)。地下街があるのでとりあいず地下街下の通路高(B)に合わせておけば、段差は半分以下にする事が出来たはずです。しかしこの短かな区間も銀座側の通路(C)と同じ高さで出来ているのは、いずれ「三原橋地下街」が取壊される事になっていた為だったからではないかと考えられます。


写真2】

三原橋地下街下の通路です。東銀座駅側から銀座駅側を撮った写真です。地下街を支えている柱が写っていますね。(この柱が地下鉄建設時に地下街を支える目的で旧橋脚の変わりに作ってものです。


【写真3】

写真2】と同様に地下街下の通路で、銀座駅側から撮った写真です。地下街の床下が飛び出ていて、通路が一段ここだけ下がってるのが判ります。
(通路の天井高が低いのが判りますね。)
謎の地下空間!?


「日比谷線建設史」 高速度交通営団発行より
【三原橋工区・B1平面図】


「日比谷線建設史」 高速度交通営団発行より
【三原橋工区・A-A”断面図】


【写真4】
謎の地下空間への入口ドア

(設計図では左にある地上に出る通路と同じ幅で地下二階に通じる様になっていた事が判ります。しかし通路としては利用出来なくなった為、唯の扉にして一見ドアの向うには部屋がある様にしか見えませんね!!)
        現在でもある地下空間

謎の地下空間は事情通の話によると銀座駅と三原橋との間の地下二階に商店街が出来る予定になっていた様で、今でもその空間は残っていて、細かく区画された商店スペースが出来ているそうです。ただガスが使用出来ない事が大きかったのではないかとの話でした。

(昭和48年に安全規制が強化され、それ以前の基準で出来ていたこの空間は商店としては利用出来なくなってしまったのでしょう。)

その為三原橋地下街は移転先を失い、建設大臣の三原橋の撤去命令も実行出来ず今も摩訶不思議な空間として生きているのです。

(現在地下二階は噂によると東京都が倉庫として利用している様です。)

三原橋地下街の橋桁は完成して80年近く経ち、いずれ近い将来寿命が来るでしょう!!その時三原橋地下街の運命はどうなるか、これからも見守っていきたいと思っています。

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