地下鉄日比谷線の上に謎の映画館!?

(1) 三原橋地下街の謎

先日新聞紙上に批評が出ていた「太陽」と云う映画を見に東京は銀座に行って来ました。

(なにせ日本で、この映画館一館だけしか上映してないのでしかたなく!!)

謎の映画館との出会い!!
          映画館はどこ?!

インターネット検索による地図を持ち、東銀座駅を降り2・3分で目指す映画館に着きました。銀座4丁目交差点近くという事でどんな近代的なビルにあるものかと期待して行ったのでした。しかしその映画館はなんと表通り(晴海通り)から道路一本入った裏通りに面した二階建てのかなり年代物のビルであったのです。(少々がっかり!?)

さらに目指す映画館はそのビルの一階にポッカリと空間が開き、カーブした道路に沿った円形をした階段を地下へと降りて行くのです。そこは何処と無く薄暗く、レトロな雰囲気を持った異空間といった所でした。



看板を発見!


「太陽」のパンフレット
       なんだか座席がゆれる!?

九時半に着いた時十一時開演というのにもう十人位の人が既にその階段に沿って行列をつくって待っていました。「太陽」と云う映画はロシア人監督が終戦前後の昭和天皇の人間的苦悩をリアルに描いた作品で、昭和天皇をイッセー尾形が演じ、“孤独な一人の人間”としての天皇を内面的・外見的共に見事に演じきっていました。

開演時間前には立ち見もでる盛況の内に上映開始。スクリーンには皇居の地下に掘られた防空壕で天皇が独り食事をしているところから始まり、終始薄暗い地下空間の画面が続くのです。初めはさほど気にならなかったのですが時々かすがな電車の走行音がし、座席が少し揺れているのが感じる様になり、はっとしてそこが地下にある映画館だったのに気が付きました。それはまさに映画の内容とピッタリの効果を発揮し、臨場感豊かな雰囲気をかもし出していました。

     上が道路で下が地下鉄??

映画が終り映画館を出て地下通路を入って来た方向と反対側に歩いて行くと、左側には古そうな小さな飲食店・アダルトショップ・理容店が5・6軒が、また右側には同じ系列の映画館が2館があり、「夕日の3丁目」的な情景にタイムスリップした様でした。

その通路を30m位行くと入って来た所と同様に円形の階段があり、上るとそこは晴海通りを挟んだ反対側に出て来たのでした。という事は今観ていた映画館は間違いなく道路の真下にあった事になり、さらにさっき聞こえた電車の走行音は地下鉄日比谷線となるの?

なんとその映画館は上が道路で下が地下鉄というサンドイッチの具の様な状態の所にあったのでした。こんな事があるなんて信じ難い事です。そこでどの様な経緯でこの映画館が出来たのか調べてみる事にしました。


なんと道路下の地下街だった?!


なんとそこは地下街だった!!
          三原橋地下街?!

まず地図上で場所を確認したく国立国会図書館の地図室で住宅地図を見てまずびっくり!何と映画館があった所は「三原橋地下街」と書かれているではありませんか。

地下街の概念とはちょっと当てはまらない印象で、単なる古いビルの地下といった方がピッタリのイメージです。しかしそこはビルの下でなく、道路の下にあるのだからやはり地下街には相違ないのでしょう。

どうして駅前でもなく、繁華街にあるわけでもないのにどうしてこの様な所に地下街が出来たのでしょうか?ますます疑問は膨らむ一方です。


住宅地図 「中央区」 2006年 ゼンリン発行
国立国会図書館蔵


1/1万地形図「日本橋」 陸地測量部発行
明治42年測量大正2年修正
国立国会図書館蔵
        やっぱり橋だった?!

また「三原橋」と言う名称が気にかかり、もしかするとそこは橋だったのではないのか?住宅地図を見ても地下街の形状が橋とそっくりなのです。

そこで1/1万地形図を過去に遡って調べてみるとやはりそこはやはり「三原橋」という橋があったのでした。大正2年の地形図には三十間掘川に橋がはっきり記載されています。

それが戦後の昭和31年の地形図には既に橋はなく橋跡の左右には半円状の取付け道路があり、堀川跡は道路と建物が記載されています。

さらに昭和59年の地形図には都電に変わって地下鉄日比谷線が記載されています。この時は地下鉄日比谷線を建設する時に一緒に鉄道の上部に橋の部分のみに地下街を作ったのではないかと考えました。


1/1万地形図「日本橋」 地理調査所発行
昭和5年測量昭和31年修正
国立国会図書館蔵


1/1万地形図「日本橋」 国土地理院発行
昭和59年編集
国立国会図書館蔵



地下鉄より地下街が先にあった!!

まずインターネットで「三原橋地下街」について何か情報がないか検索してみましたら、
かなりの数のHPにこの地下街について記載されている事が判りました。

それらのHP情報と各種の資料を整理してみると「三原橋地下街」には次の様な歴史があったのです!!

@ 三十間掘川の埋立!!
       なぜ埋立られたのか?        

終戦後空襲で焼け野原となって銀座一帯の瓦礫の処理に困り、その捨て場所として東京都によって昭和24年〜27年かけて三原橋の架かっていた三十間掘の埋立事業が行なわれました。

(実に瓦礫処理と土地造成の一挙両得だったのですね!)埋立てられた土地は民間に払下げられ、順次建物が建っていったそうです。

この時三原橋以外の橋(紀伊国橋・木挽橋・賑橋等)は全て撤去され、どの様な訳か三原橋のみが撤去されず残ったのでした。

私が想像するその訳とは、三十間掘に架かっていた九つの橋の内唯一の都電が走っていた橋だった為、都電の通行を止めないで撤去するには時間と資金が係る為、とりあいず三原橋のみ撤去せず橋下のみ埋立てたのだと思っています。


【戦後間もない三原橋周辺・焼け野原状態】

米軍航空写真 昭和22年8月1日撮影
国土地理院空中写真閲覧サービス


戦後直後の三原橋の写真
 (昭和21年4月)

はっきりと橋桁が確認でき、欄干が戦災で無くなったいるのが分かります。また歌舞伎座と着物姿の女性が写っていて、とても戦後半年とは思えないですね!


埋立中の三十間掘川 (昭和23年4月)

手前の朝日橋は既に埋立てられ、写真上部に少し橋桁が残っているのが三原橋です。

トラックが何台も瓦礫を投棄しているのが確認できる。朝日橋から下側にはまだ水面が写っている。

【「アメリカ人の見た日本50年前」 毎日新聞社     平成7年発行 横浜市立図書館蔵より】

(左写真の橋桁が今も健在なのです!
あなたは現在も三原橋を渡っているのです!)


終戦直後の三十間掘川

手前の橋は朝日橋でその横のビルは空襲にあった京橋郵便局です。奥の橋は豊玉橋です。
上記航空写真の矢印方向に撮った写真です!
(昭和21年頃
撮影)
【地図の友 1978-8号より】


銀座名画座時代の写真

(昭和53年6月撮影)

【地図の友 1978-8号より】
左右2枚の写真は新発見した写真です!
追加表示します。


日本映画100風景(HP)より
銀座化粧(新東宝1951年製作)のスチール写真
         埋立直後の三原橋

「銀座化粧」と云う映画に埋立終了直後のシーンが出て来て、その写真が日本映画100風景(HP)に出ていました。〔実に貴重な写真ですね!!〕

この写真を見ると他の埋立地とは段差ができ、橋下に入るには階段が作られ、その内カーブしている階段は今の地下街に入る階段ではないかと想像できます。


三十間掘の埋立地の中心に出来た道路(直線)が晴海通りに接続する部分がカーブしているのは、直接三原橋に取り付ける事が出来ず仕方なく橋詰に向ってカーブして作られたのでしょう!!

(橋下の地下通路が中心道路に接続する役目を負っているのかもしれません!)

A 露天整理と三原橋
昭和26年製作の「銀座化粧」と云う映画の写真に、まだ三原橋地下街が出来る前の画像が写っているのをみると、はっきりと橋の橋脚・鋼板桁・欄干等が写っていて、更に橋下に降りる為の階段も見て撮れ橋下はりっぱな屋根付き空間が出来上がっていたのです。

「中央区史」によれば昭和25年にGHQにより都区内の公道上にある露店を整理する様にとの命令がだされ、その転廃業に当たって東京都の払った努力は大変なものがあったそうです。

その方法としては集団移転して、マーケットを作ると云うものだったそうです。都はその費用の貸付をし、27年4月より三原橋の埋立地を借用して営業し、28年12月には銀座館マート(三十間掘の埋立地内で三原橋横にあった!)が完成開業したと書かれています。
しかし三原橋地下街については記載がありません。東京都のHPに地下街一覧表が載っており、それによると三原橋地下街の開設日が昭和27年12月1日と記載されています。

地下街建設期間を半年位と換算すると、上記三原橋の埋立地を借用して云々の記載は4月より建設を開始し12月に三原橋地下街が完成したと云う事ではと想像されます。

 
     


部分が旧三十間掘川跡にあたります。


 銀座ガイド 昭和28年11月 銀座タイムス社発行
        〔ガイド内にある住宅地図より〕

          中央区立京橋図書館蔵


【写真A】
銀座4丁目側から見たの「三原橋観光館」
手前の「銀座館マート」跡は現在工事中です。
時の流れを感じさせますね。但し「観光館」は時が止まったかの様に存在しています。


【写真B】
銀座5丁目側から見た「三原橋観光館」
「三原橋地下街」を挟んで同形である事が判ります。
「観光館」「地下街」が一体構造である事の
証明ですね。
B 日本一古い地下街
果たしてこの不思議な構造物はどの様な経緯で建設されたのでしょうか?このあたりの事についての資料を探してみたが見つからず、東京都や現在の所有者に聞き取りをしても触られたくない部分のある様ではっきりした事は判りませんでした。しかし地下街の事情に詳しい人にお話をお聞きしたところだいたいの経緯を知る事ができました。

それによると、それはやはり露天整理の命令から始まって、戦後の混乱期の闇に発生した政商といわれる人間と、土地を所有していた東京都との複雑な利権関係があったようです。

その政商とは小宮山英蔵氏と云われる平和相互銀行創業者で、小佐野賢治などと同様に戦後の混乱に乗じて屑鉄商などから始め、裏の利権社会を生きて来た人だそうだ。

そして当時の東京都知事の安井誠一郎との間で政商ぶりを発揮し、小宮山氏は新東京観光鰍ニ云う受皿会社を設立し三原橋地下街・観光館の権利を得たとのではないかとのお話でした。

現在の権利関係は地下街は東京都が所有し管理は新東京観光鰍ノ委託し、店舗の家賃はその新東京観光鰍ノ支払っているそうです。

また地上にある道路を挟んだ二棟の建物(当時の名称を三原橋観光館と言った)は、土地は東京都の所有で建物は新東京観光鰍フ所有だそうで
す。

そして昭和27年に日本初の道路占用施設としての地下街が開設されたのでした。



銀座ガイド 昭和28年11月 銀座タイムス社発行
        〔ガイド内にある住宅地図より〕
          中央区立京橋図書館蔵


住宅地図 「中央区」 2006年 ゼンリン発行
国立国会図書館蔵
          新旧住宅地図の変化!
     〔地下街の事情に詳しい人の話によると!〕

1.「銀座ゲームセンター」とはパチンコ屋の事で、その後「銀座地球座」と云う映画館になり、平成元年に二つに分割して「シネパトス2・3」になったそうです。

2.「テアトルニュース」はその後「銀座名画座」になり、平成元年に「シネパトス1」になったそうです。

3.「テアトルニュース」では俳優・竹脇無我の父(竹脇昌作)がニュース映画の解説をやっていたそうです。かなり名調子で名物人物だったそうです。

4.
「東京都案内所」とあるが、東京都が事業にからんでいる事の証明であるでしょう!!


当時の食堂「三原」が今も営業している


【観光館A】

建築当時の外観がよく残っているA館
橋梁の緩やかな曲線(勾配)があるのが判りますね!


【観光館B】

外観上別の建物に見えてしまうB館
こちら側の写真でも橋梁の曲線があるのが判ります。


東京都道路台帳図  1/500

〔東京都第一建設事務所作成〕


中央区橋梁図鑑 〔三原橋写真・断面図〕
昭和4年竣功   中央区京橋図書館蔵
    道路台帳図で三原橋の位置を確認!!

上記緑線内が全て東京都の道路敷地として管理されています。建物が都有地に建っている事が確認できます。
また橋を挟んでの側道も都道敷地なのですね。

赤線で囲んだ部分が三原橋の位置になります。丁度その部分の車道にL字溝が記載されていない所です。
     三原橋の橋桁が今も生きている!!

関東大震災後昭和4年に架け換えた時の三原橋です。
この時の三原橋の鉄鋼桁・鉄筋コンクリート床板が現在も生きているのです。【写真C】を見ると橋桁のカーブの形状が良く確認できます。


三原橋地下街・観光館の設計図を発見!!

インターネット上で三原橋地下街・観光館の資料を検索していまいたら、その設計図の写真を発見し驚きと喜びで感激でした!!その資料はKai-Wai 散策〕と云うブログで、建築家「土浦亀城」について書かれているページで、建設当時の図面が記載されていました。

橋下を三原橋地下街とし、橋と取付け道路との間のカーブした空間を三原橋観光館として一体的な構造物として建設された様です。観光館の一階中央から直接地下に入れる様になって、橋(三原橋地下街)を挟んで反対側の観光館を経てまた地上に出る様に作られています。

現地で直接を見ても判らない地下街の全容が良く判ります。

1.晴海側の橋台と橋脚間を映画館として使用

2.橋脚と橋脚の間を晴海側から店舗・通路・遊技場(当時)の一部として使用

3.橋脚と銀座側橋台間を遊技場として使用

実に限られた狭い橋下空間を有効に使用し、邪魔な橋脚を避け、上部橋桁を動かせない為映画館の空間は他の部分より床を深く掘ったりした素晴らしい発想ですね!!

どの様な経緯で当時かなりな著名な建築家であった土浦亀城氏が、この様な前代未聞の橋下構造物(日本で最初で最後となる!?)の設計を請負ったのかも不思議なものですね!!



【三原橋地下街・平面図】
中央通路を挟んで上側に映画館と店舗が7区画、下側に遊技場として設計されている。
通路の両側にはカーブした階段が描かれている。
tk693_5[1]0001.jpg

【三原橋地下街・断面図】
三原橋のカーブしている橋桁形状と2本の橋脚がはっきり読取れます。
映画館はスクリーンに向って傾斜して作られていて、橋桁下空間と云う悪条件をクリアし設計されています。
         【三原橋観光館・断面図】

現在の観光館A館にこの設計図の面影を残していますね!昭和27年当時にこの様なモダンで大きな窓の発想は、現在でも充分通用する斬新なデザインですね!!
             【写真C】

橋桁(通路部分)のアーチ形状がはっきりと確認できます。現在でも三原橋が生きている証拠です!!
              【写真D】

店舗の天井にもはっきりと橋桁のアーチ形状が見て取れます。狭い空間を工夫して利用しているのがわかりますね!!
              【写真E】

通路から映画館に通じる階段も設計図のまま残っています。(映画館からの非常口になるのでしょう)
              【写真F】

映画館(シネパトス1)の内部です。スクリーン前のアーチ状に狭まる形状が設計図当時のままではっきり残っています。またスクリーンに向って座席が傾斜しているのもわかります。〔座席は今流行のゆったりした座り心地の良いものでした〕
              【写真J】

道路から三原橋地下街に降りる階段です。道路に沿ってカーブしているのが判ると思います。またかなり急勾配なのが判りますか?

「トップページ」に戻る

(2)「地下鉄日比谷線の建設」へ

「鉄道の箱」に戻る

inserted by FC2 system