終戦前後の地図・航空測量史 

(4)伊勢丹時代・米軍地図部隊のエピソード集

@ 米軍接収直後の伊勢丹の眺め!
(ペギー葉山さんの思い出話より)
  焼け野原に浮かぶ伊勢丹ビルの明かり! 

(昭和20年の終戦時、ペギー葉山さんは東京中野の国民学校6年生だった。)

「私のうちは東中野だったんですが、まわりは全部焼け野原で、なぜかうちだけが、ポツンと残ってたんです。焼夷弾は一応落ちたんですよ。それを消して。ですから私のうちから新宿がポカーンと、その間何にも無かった。夜になりますと、新宿の伊勢丹が丸見えで、遥か彼方に。三階から上が米軍の接収のビルになります。一階、二階はかろうじてデパートの営業してたんですが、夜になると三階から上がワッーと明かりがつくの。ちょうど大きなクリスマスケーキが空中に浮いてるみたい。ちょっと異様な光景でした。」

HP「あの日 昭和20年の記憶」 10月編より (NHK「ラジオ深夜便」での、お話を収録したものを記述)
※〔米陸軍第64工兵地形大隊が昭和20年10月17日に伊勢丹デパートに進駐した直後の情景と思われます。米軍部隊は優先的に電気が供給されていたのでしょう。
占領軍の米軍と敗戦国・国民の対比が、象徴的な光景として語られています。〕




終戦直後の新宿の写真:左のビルが伊勢丹で右のビルが三越、周りは一面の焼け野原だった事が分かる。

【新宿区の歴史 名著出版発行より


【東京新聞 平成21年5月26日夕刊 「この道 第17回」より:ペギー葉山さんの自伝記が掲載された。】

この自伝にも東中野のご自宅から”伊勢丹の灯”が見えた事が書かれています。

【東京新聞平成21年5月26日「この道 第20回」より】

終戦の年(昭和20年)東中野のご自宅から伊勢丹を眺めた国民学校六年生のペギー葉山さんは、この自伝によると昭和25年青山学院高等部在学中に級友の兄(立教大学ハワイアンバンド)に誘われて、夏休みのアルバイトとして横浜の米軍キャンプに行かれたのが歌手の成り染めだったそうです。】


A 伊勢丹の「米軍地図部隊」の残飯で作った”シチュー”が人気に!
     ”ビックリシチュー”と呼ばれた! 

新宿のヤミ市の初期は何でも売れたという、新宿伊勢丹が米軍に接収されており、そこからの残飯で作ったシチューが人気であった。このシチューの名前は「びっくりシチュー」と呼んでいた事がNHK番組の「昭和20年その時」で時の話として、闇市の米軍残飯で作ったしシチューの事を言っていた。残飯だが中にソーセージなどが入っていて栄養満点であった。その為大変人気があった。残飯だがまた煮てしまうから衛生面でも大丈夫だった

【実録 日本占領(GHQ日本改造の七年) 
        平成17年 学習研究社発行より】


   〔右写真解説〕
終戦後新宿駅周辺には闇市や露店が姿を現した。
昭和21年撮影のこの写真には伊勢丹と共に歩道に露店が立ち並んでいる様子が写っている。この時期伊勢丹の3階より上の階では米陸軍第64工兵地形大隊が使用し、6階に下士官食堂、7階には将校食堂があった。ここの食堂からの残飯が闇市のシチューになったのであろう。



【新宿の1世紀アーカイブス 生活情報センター 
平成18年発行より
 

    【「和田組の闇市」が書かれている地図】
    〔現在の東口広場になっているあたりです!〕



 

新宿駅東口にあった和田組の闇市で昭和24年頃の写真です。”シチュー”はこの「和田組の闇市」で販売されていたそうです。

【ヤミ市 幻のガイドブック 松平誠著 1995年発行 
           樺}摩書房より】

     「獅子文六」も食べた名物シチュー

獅子文六の昭和25年に朝日新聞に連載された「自由学校」と云う新聞小説に次の様に書かれています。

これの料理だが「ひどく熱く、ドロドロした濃汁である。中身を掻きまわしていると、豚の肉塊らしきもの、明らかなコン・ビーフ、鶏骨、じゃがいも、人参、セロリの根等がサジにかかってくる。それに肉の分量がすこぶる多い。その他、缶詰品らしいトーモロコシの粒、グリーン・ピース、銀紙のはりついた欠けたチーズ、マッシュルームらしきキノコまで入っているのだから、いよいよ洒落ている。」

「一サジ含んでみると、ネットリと甘く、油濃く、動物性の汁粉の様でなんともいえぬ腹の張る味だった。しかしとにかく栄養価の高い食物には違いなかった。そして戦前には絶対になかった、実質的で体裁をかまわぬ料理であることも確かだった。」

「ヤミ市 幻のガイドブック」 松平誠著によると、これはアメリカ占領軍の食堂からでた残飯のごった煮なのである。材料は英語で「ギャベッジ」すなわち「台所のごみ」と呼ぶもので、もとの形はボサボサした塊になっていた。当時は普通のルートでは手に入らない貴重品である。

新宿ではこれを大袋からそのままかまわずどさっと大鍋にあける。次に水を加えて火にかけ、中火でほどよく煮込み、最後に塩を加えてかき回せば出来上がりである。まさに手抜き料理の逸品であるが、毎日できあがるのを待って、あっと言う間に売り切れたという。
この食材であるが出所は「伊勢丹」である。

当時「伊勢丹」は1945年10月から、三階以上を占領軍総司令部に接収されており、本館のほか事務所館もクラブとして使われていた。これに目を付けたある男が、ここの食堂からでた「ギャベッジ」を貰い受けて使ったのである。

「伊勢丹」から東口和田組マーケットのその店まで持ってくる荷運びがいて、毎朝大袋で担いできたものだという。だから何でも入っているはずである。こういう食材を、元の形がなくなるまで煮込み、椀に盛って出すのが正統な調理法なのである。
と書かれています。
 ”露店”が工兵隊モータープールの隣に移転

 

「第64工兵地形大隊MOTOR POOL」の入口と部隊が駐屯している「伊勢丹ビル」が写っている
   【「露店」 東京都臨時露店対策部編 
                 昭和27年発行より


昭和24年8月GHQより都内の公道から露店を撤去する旨の命令がだされた。東京都は各露店に退去する様に指示したが、反対運動がおこり協議した結果、新宿の露店は都電新宿車庫跡の一角にビルを建設して移転する事が決まった。

上記の写真は昭和26年11月に完成した移転先ビルの「新宿サービスセンター」です。後ろに見えるビルが第64工兵地形大隊が駐留している「伊勢丹ビル」、右隣りには「64・MOTOR POOL」と書かれた門が写っています。
64の数字の下に書かれているマークが米陸軍工兵隊の徽章で、お城の絵です。

この米軍駐車場から軍用車両が第一生命ビルにあるGHQ本部や空軍基地のある立川・横田などに地図や航空写真などを運んでいた事でしょう!
 
【伊勢丹・M.Pと新宿サービスセンターの位置関係】
 (昭和22年7月24日米軍撮影航空写真より)

 【米陸軍工兵隊徽章】
  
(伝統の城郭をデザインした工兵隊の徽章)
   
米軍地図部隊に勤務していた
日本人の食事事情!

(後に日本人技術者総責任者になった青野辰夫氏の話

「当時の日本人技術者は、弁当持参だったと思います。それらしいことは何にも覚えておりませんが、家内の弁当持参だったと思います、昭和2110月発足の部隊ですが敗戦の翌年です。米国人はお人よしとも云われておりますが、敗戦国民に食堂を提供すると言うほどのお人よしでもないでしょう。又そんな余裕のある時代でありません。
終戦でなく敗戦だった事をお忘れかも
!!



B 「伊勢丹」社員から見た米軍地図部隊!
(1)伊勢丹宣伝課に勤務されていた堀内誠一氏の話より!
堀内誠一氏はデザイナーとして弱冠14歳で就職した人で、後に天才デザイナーと呼ばれ「アン・アン、ブルータス」等の雑誌創刊に関わった方です。

昭和21年に熊谷宣伝課長を始め多田北烏門下が多かった
伊勢丹にコネで入れてもらう事になりました。一応入社試験もあって、GHQのHをHighと取り違えたりしましたが採用となりました。千円の本給にプラス「絵の勉強に画集でも買いなさい」と250円の手当も付いて、装飾係員になりました。

伊勢丹の建物は戦災を免れたビルの数少ないひとつでしたから、三階から上は進駐軍に接収されていました。ある階は印刷工場らしくて、詳細な日本のどこかの地図の“やれ” (刷り損なった紙)や裁ちくずが毎日運びだされてきます。百貨店の売り場は地階と二階までですが、まだ一階の奥にお米の配給所がありました。

進駐軍の見終わった「パルプマガジン」をドサッともらってくる事も出来たのです。
注)パルプマガジン1950年代頃主にアメリカ合衆国で広く出版されたフィクションを扱った安っぽい雑誌の総称

進駐軍が接収していた旧伊勢丹スケート場がもどって、米軍キャバレーだった時に美術をやっていた三林亮太郎(舞台美術家)のデザインでファッションショーを開くまでになりました。ホールの床みがみという付録もあったけれど、舞台作りを手伝って多くを覚えました。

【父の時代・私の時代  堀内誠一著 2007年
       マガジンハウス発行 より】


この当時米軍軍属婦人の服装から影響された日本女性のファッションへの関心も急速に高まって来た頃でした。


 

【王子に移転後の地図部隊:地図印刷工場】
長岡正利氏蔵 「米極東地図局一周年記念誌」より

         重すぎた印刷機!

建築家の吉見吉昭氏のHPに「建物に加わる荷重」の話題として、次の様なエピソードが書かれていました。

「第二次大戦直後、東京のあるデパート(伊勢丹の事)が進駐軍(第64工兵地形大隊の事)に接収されて地図の印刷工場になったのですが、印刷機械とアート紙の重量が大き過ぎた為に床が壊れたことがあります。」と書かれていて、本来上記写真の様な重量が大きな印刷機が置かれる事を想定して建設されていないデパートの床荷重の制限をオーバーして起きた現象だったと思われます。

そこまではさすがの米軍も想定していなかった出来事であった様です!その後王子に移転した部隊は旧日本陸軍工廠の工場に印刷機は設置される事になります。
(2)初の大学卒入社試験で採用された池田潔氏の話より!

       接収中の伊勢丹デパート内部状況!

伊勢丹は新宿本館の3階以上を駐留米軍第六十四工兵基地測量大隊に接収され、やがて隣接事務館も接収された。

進駐軍の権力は強く、建物の接収のみでなく、郵便物の検閲まで行なわれた。封書は商用・私用・の区別なく恋文であろうと全部開封され、その底の部分に、OPENED BY US ARAREXAMINERとプリントされた”セロテープ”が貼られ、検閲済のスタンプが押された。これは昭和24年まで続いた。

私が伊勢丹に入社した時(昭和23年)の配属は東側エレベーター前の配給衣料品売場だったので、そのエレベーターを専用にしていた兵隊達の乗り降りを目前にした(客用は西側のみ)。兵隊達は測量した地図を作る事務係の人達であったので、”温和しくてお客様とのトラブルはなかった。

松屋と違って接収が全館でなく、地階と2階が使用できた事は伊勢丹にとって不幸中の幸であった。なぜなら当時は売る商品がなく、書籍もカメラも中古品を扱い、ほとんどが少ない配給品を扱う程度で、地階には物々交換所があった。これは顧客が持参する商品と、それと交換したい商品の品名を書いて、ガラスケースに入れ手数料をとるもので、芋と砂糖、軍手とお米等の交換であった。しかし経済の回復するにつれて、他店との立遅れに焦虜することとなった。

【商道ひとすじ(伊勢丹小菅丹治の生涯) 
   池田潔著 産業研究所 昭和39年発行より】



  
 【昭和20年10月〜昭和22年2月の新聞広告
  「伊勢丹75年の歩み」昭和36年発行より】
      意外な”セロテープ”の歴史秘話!

   【米軍部隊で地図製図していた人の思い出話】
当時既に米軍は製図作業に“セロテープ”を使用し、最初に見た時は大変驚いたそうです。また伊勢丹の作業場から出るとき人目を盗んで、鉛筆などに巻いて会社へ持ち帰り使用した事もあったとの事。それ程貴重な物だった様です!
〔この人は昭和26年9月から且ハ真測量所から伊勢丹の米陸軍第64工兵地形大隊に出向、昭和28年まで伊勢丹の3階で製図作業に従事されていた。〕

    【GHQの絶賛したニチバンの技術!】
昭和22年9月日本に駐留していたGHQから、願ってもない話がニチバンに舞い込んできた。GHQは検閲後の私信を再び封かんする際、アメリカから調達したセロハン粘着テープを使っていたが、輸入が遅れたため品不足に陥り、日本製のテープを使う必要が生じたのだ。その発注先に選ばれたのがニチバンだった。開発陣は努力を重ね昭和23年1月、晴れて最初の製品をGHQに納品することができた。その品質にGHQの将校たちは絶賛したと云う!
        
     〔GHQに納品したセロテープとテープカッター〕
(注)セロハン粘着テープは昭和5年に米国の3M社が開発した「スコッチテープ」の事である。
  【NTTコムウェアのHP「ニッポン・ロングセラー考」より】

    地図部隊・兵隊達の気質について!

池田氏の話だと伊勢丹駐留の兵隊達は「温和しくて」と書かれているが、他方当時米軍のMPジープに同乗していた警察官の体験談によると下記の様に書かれている。

「武蔵野ビヤホール」という連合軍将校向きのビヤホールが営業していた。ここでもよく米兵の喧嘩があった。工兵隊というのはどこの国でも気質の”荒っぽい”のが多いらしく、伊勢丹ビルに駐屯していた米軍工兵にも、いろいろ武勇伝があったようだ。

米兵なども隊内での指示が徹底していたようで、あまりこの地域にはいなかったが、ホテルにはそうとう出入りがあったようで、特に歌舞伎町あたりは伊勢丹の4・5階あたりに駐留していた測量隊などの兵士が遊びに来ていたこともあった。とあり対照的な記述である。
 MPのジープから見た占領下の東京 (同乗警察官の観察記)
         原田弘著  草思社発行より】

日本人技術者総責任者になった青野辰夫氏の話によると「日本軍と同様に人それぞれ!」との事で一概には言えないそうである。




C 米軍接収の思わぬ恩恵に与った伊勢丹デパート!
 (1)接収で米軍より家賃収入!
     勝者が敗者に家賃を払っていた!

米陸軍第64工兵大隊に3階以上を接収された伊勢丹にはGHQからきちんと家賃が支払われていたそうです。占領軍が接収した建物に賃料を支払っていたとは驚きです。「伊勢丹百年史」に下記の様な記述があります。

昭和20年代後半の配当率をみると、全期を通じて高水準を維持している状況がみてとれる。こうした高配当を実現できたのは、この時期の当社に固定収入としてGHQの接収家賃があったことが影響しているものと推定される。

その実額についてはわずかな資料しか残されていないが、それによると25年4月現在で一ヶ月借上料が本館85万円、事務館3万円、計88万円と記されている。六ヶ月間の合計は536万円余になる。また有価証券報告書によれば、27年度上期の家賃収入は1647万円、同下期には3289万円のなっている。27年度下期の場合は、同期の利益額に近い数字となったおり、仮にこれが例外であったとしても、この家賃収入が経営的に大きく寄与していたものと推定できる。」

    

     接収時代の伊勢丹社員!(左右の写真共)
    【伊勢丹百年史 平成2年 伊勢丹発行より】

      なんとボーナスが11ヶ月分出る!

当時社員だった池田潔の著書「商道ひとすじ」には、下記の様な驚きの話が書かれている。

「昭和28年6月に接収が解除された。だがこの間伊勢丹は光熱費や建物管理に対する総じての経費を進駐軍が払い、家賃収入もあって経済的には大きな利益を得た。
経理面では、経費が進駐軍持ちの、家賃まで入るので利益は大きく、昭和26年6月のボーナスは本給の11ヶ月分という、伊勢丹創立以来の最高の額が支給された。地価が当時吉祥寺で坪千円前後の時に、主任クラスのボーナスが13万円であった。女子社員がボーナスを男友達に見せたのを奪われて、交番に駆け込んだのが新聞沙汰となり、伊勢丹の高額ボーナスが有名になった。私は発行されたばかりの千円札を十枚ももらって早速貯金をした。この貯金は後に婚約指輪の代金と株式投資の資金に役立てた。

          
   〔高給なボーナスをもらう事になる”明るい女子社員”〕
 (2)米軍地図部隊から学んだアメリカ文化!
        米国の合理的経営システム!

良くも悪くも米軍に8年間も3階以上を接収されていた伊勢丹の経営陣や社員達は、身近に米軍人達と接する機会が多かった事でしょう。その為直接的では無いにしろ上記堀内氏の話にあった様に、米兵が読み古したファッション雑誌をもらったり、あるいは米兵の中には各部門で専門的な人間もいて、個人的な接点もあったものと想像されます。池田氏の話にも次の様な事が書かれています。

特筆すべきは、この測量隊が持っている文化的要素、即ち教育や経営のノウハウを学んだ事である。教育訓練法、O.J.Tやブレーンストーミング等、多数の戦術や戦略を経営に、マーチャンダイジングにいち早く取り入れたことは、実に今日の伊勢丹の教育とマーチャンダイジングの優秀さの基礎となったもので、その事は忘れてはならない

事実この部隊で働いた人の話によると、新入職員に採用されると半年から一年間測量・地図関係に関してシステム化された教育を受けたそうだ。

       
    〔米陸軍地図部隊が使用していた技術教本〕
     【北区中央図書館・北区の部屋所蔵】

   伊勢丹小菅常務がいち早く欧米へ視察旅行!

未だ連合国軍の占領下にあった昭和26年6月17日に当時伊勢丹の常務(後の社長)であった小菅利雄は三か月に渡っての欧米視察に羽田空港から飛び立った。

「以前から欧米の百貨店経営を実地に研修したいと考えていた小菅利雄だったが、講和条約前のこの時期、原則的に海外渡航は禁止されていて、その実現は困難であった。
「伊勢丹百年史」によると、「当社は海外取引を行っていなかった為、渡航許可を得るには苦心もあったが、様々な伝手をたどって実現にこぎ着けた」と書かれています。」

小菅利雄が他の百貨店に先んじて欧米視察を思い立ったのは、おそらく伊勢丹の置かれた状況(3階以上米軍接収)が生んだ必然と偶然が重なった結果だったのではないでしょうか。その為欧米の情報にいち早く接する事ができたのと、また海外渡航の実現にも何らかの米軍(GHQ)当局から便宜が図られていたんではと想像されます。

この時の欧米視察によって伊勢丹は近代的百貨店経営のノウハウをいち早く得る事ができ、今日のファッション伊勢丹の基礎を築く事が出来たのでしょう。米軍接収と云う「負」を上手く活かした事を忘れないでほしいです。
        〔欧米視察に出発した今の伊勢丹を築いた小菅利雄〕
  【伊勢丹百年史 平成2年 伊勢丹発行より】

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