終戦前後の地図・航空測量史 

(3)東京進駐以前の第64工兵地形大隊
〔オリンピック作戦用戦術地図「種子島の1/2.5万地図」〕

A なぜ米軍は種子島の地図を作ったのか?

第二次世界大戦最終作戦である日本本土進攻作戦!
          【ダウンフォール作戦】
沖縄上陸作戦(アイスバーグ作戦)が行われる直前である昭和20年(1945年)3月29日に米統合参謀本部で対日攻撃戦力最終プラン(暗号名:ダウンフォール作戦)が決定された。

この作戦は次の2つの作戦から構成されていて「九州上陸作戦(暗号名:オリンピック作戦)を12月1日、本州上陸作戦(暗号名:コロネット作戦)を昭和21年(1946年4月1日)も実施とする」という目標を設定した。
(注)後にオリンピック作戦は11月1日に、コロネット作戦は3月1日に変更される。

6月18日に日本打倒最終作戦決定最高会議でトルーマン大統領はオリンピック作戦の準備継続を決定した。
オリンピック作戦は、ソ連参戦、原爆完成と共に日本打倒の最終作戦計画となったのであった。(コロネット作戦は実施不要と判断された)

JAPANESE HOMELAND DISPOSITIONS
(日本母国作戦計画)
「ウィキペディア」のダウンフォール作戦より

【オリンピック作戦計画図】
「ウィキペディア」のダウンフォール作戦より

沖縄戦でも本島上陸前に同じ目的で慶良間諸島に上陸・占領した。
        【オリンピック作戦と種子島】
オリンピック作戦は九州上陸作戦ではあるが、九州全体を制圧する目的の作戦ではなく、あくまでも最終目的地である首都東京を制圧する事であり、その為南九州(鹿児島県から宮崎県にかけて)を制圧し、東京の攻撃基地としての飛行場確保が一番の目的であった。

九州本土に上陸作戦では多数の艦船が投入される予定で、その数は空母42隻・戦艦24隻他400隻以上であり、その規模は沖縄上陸作戦以上の規模であった。

小さな離島である「種子島」にどうして上陸なのかの謎は、九州本土上陸作戦でおいて、作戦中本土近くで上記の多数の艦船を安全に投錨させる場所が必要だった。この投錨地には輸送艦やダメージを受けた艦船の休息場所になるはずだったのである。

その為作戦の事前攻撃として種子島の他、屋久島・甑島などを、本土上陸5日前に占領する事になっていたのでした。
    【戦略地図としての種子島1/2.5万地図】
米軍は作戦計画段階で作戦地域の情報を徹底的に収集していた。その一環として最重要な情報が航空写真・地図であった。沖縄戦(アイスバーグ作戦)においても各種地図類が作戦準備段階で作成され、作戦遂行に重要な役割を果した。

昭和20年3月末に九州上陸作戦(オリンピック作戦)が決定されると、おそらくその直後から作戦準備作業が開始されたと思われ、地図作成についても計画準備されたものと思われる。

この1/2.5万地図が作成される以前に米軍は日本の陸地測量部作成の1/5万地形図を使用しローマ字表記の地名と方眼線を記載したL791シリーズの1/5万「SHIMAMA」をワシントンのAMS本部で作成していた。


RYUKYU-RETTO  L791シリーズ索引図
(テキサス大学図書館HPより :AMS1945年作製)
戦艦大和撃沈に参加した空母艦載機がその直後撮影した!
       【航空母艦ホーネットの行動記録】


”1945年4月14〜16日にホーネット艦載機の搭乗員は九州までの間に60機以上の日本機を撃墜した。”と記載されている。※この時ホーネットは沖縄近海よりかなり北上していた様である。記録の上部には4月7日に戦艦大和を撃沈した事が記載されている。
   (USS Homet by Dwayne Milesより)

 
 【戦艦大和と種子島 森友和著 2001年 私家版より】
 
 【航空母艦ホーネットと艦載機:CV-12(ホーネット)
    (USS Homet by the US NABYより)
        【種子島の航空写真撮影!】
昭和20年3月29日に決定したオリンピック作戦の準備作業が開始され、重要な情報収集である地図作成の為の航空写真撮影が行われる事になった。

前章(2)で掲載した第64工兵地形大隊の歴史書によると「陸軍航空隊と沿岸警備隊からの追加任務として、種子島と甑島に関する2つの新しい企画が始められた。の記載があり、この任務によって種子島の1/2.5万地図の作成作業が開始され、少なくとも今回見つかった「SHIMAM NE」以外の種子島全域と甑島の地図が作成されたのであろう。

※オリンピック作戦の主戦場である南九州本土の1/2.5万はおそらく作成(完成)する前に終戦となり発行されていないと思われる。(「SHIMAM NE」図が発行されたのは昭和20年8月)

 【1/2.5万写真図「SHIMAM NE」のCREDIT NOTE
                                     

当時は沖縄上陸作戦が開始され激戦が続いていた頃であった。「SHIMAM NE」図のCREDIT NOTEの記載には太平洋艦隊兼太平洋方面軍司令部の指令により太平洋米陸軍第64工兵地形大隊が1945年7月に作成とあり、沖縄戦に参加していた航空母艦ホーネット(CV12)が戦艦大和を撃沈作戦後の1945年(昭和20年)4月14日に出撃した756・757号機と15日に出撃した762号機によって撮影され、戦艦大和を撃沈してから一週間後に種子島の航空写真が撮影された事になる。
日本側の記録にも記載あり!
         【太平洋戦争末期の種子島】

種子島出身の森友和著「戦艦大和と種子島」に寄稿された種子島・元西之表市長であった井元正流氏の「太平洋戦争と種子島」に終戦前後の種子島の状況が記載されている。

それによると、「昭和20年に入ると種子島では米軍艦載機による無防備な島民をねらった機銃掃射や、市街地や港湾施設への爆弾投下が激しくなっていった。

昭和20年3月種子島守備隊は増強されて独立混成第109旅団となり総員約6000人となり、米軍上陸に備えて昭和19年末から防御態勢を整えていった。

その中昭和20年3月18日西之表町に初めての空襲があり、午前10時頃、グラマン戦闘機3機が襲来し街中を機銃掃射し同じ攻撃を三度繰り返した。

この空襲の後、一ヶ月空襲は無かったが、
偵察機は飛来したそして第2回目の西之表町空襲が4月18日にあり、それ以降米軍は終戦まで頻繁に種子島に対する空襲を繰り返していた。」
(同誌によると7月に島間方面空襲激化との記載あり。)

同誌の記載から第1回目空襲(3月18日)から第2回目空襲(4月18日)の間に偵察機が飛来した事が記録されており、「SHIMAM NE」に記載されている航空写真撮影日である4月14日・15日と符合している。

【「戦艦大和と種子島」 森友和著 私家版より】


前之浜に対面した断崖にある旧日本軍の砲座跡)
【種子島 昔・今・未来 HPより】
【南西諸島兵要地誌資料図】



【縮尺1/20万 昭和19年9月整正 参謀本部発行】
(国立国会図書館蔵)
   【日本側の種子島軍事地図】

左図は昭和19年9月参謀本部が発行した「兵要地誌資料図」で、凡例を見ると米軍の上陸を予測し、「SHIMAM NE」図内の熊野浦が上陸敵地として上記の写真の前之浜と共に記載されている。

日本軍も米軍が本土上陸前の戦闘として種子島占領を予想し、昭和19年7月に独立混成第23連隊(総計2230名)が種子島の防備の態勢を整えて行った時期に合わせてこの兵要地誌資料図も作成されたのであろう。

下図・右表題は昭和19年5月7日付の「南西諸島陸海編合図 大隈列島 其三」で陸地測量部発行の1/5万地形図と海軍水路部発行の海図を合成し作戦用地図として作成したものである。

経緯度5秒間隔に方眼線が記入されているところが一般地形図と異なるところであり、更にこの地図には磁針偏差と全円分度線が記入され作戦用地図の形態を思わせるものがある。

元陸地測量部で製図しておられた富沢章さんの話によると「終戦間近になると本土決戦に備えた太平洋沿岸の修正地図を作る様になった。この作業を太平洋のタをとって、『○タ作業』と呼んでいた」とあり、日本軍が当時この様な地図を作成されていた事が確認できる。


【1/5万南西諸島陸海編合図  大隈列島(其ノ2)  陸地測量部 昭和19年5月発行】
(国立国会図書館蔵)
戦略地図「SHIMAM NE」は実戦に使われなかった!
   【日本本土侵攻作戦には消極的であった!】

昭和20年(1945年)3月29日に米統合参謀本部で日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦)が決定された後、実施された沖縄戦において米軍は欧州戦線における兵員の死傷率を大きく上回り、実に35%に上った。硫黄島での戦闘と相まって米国民は対日戦争で、これ以上の犠牲を出さない方策を望んでいたのである。

ドイツ軍が降伏した5月8日の後、6月18日に開催された日本打倒最終作戦決定最高会議において米国戦争指導部は日本本土侵攻と共に原爆投下・ソ連の対日参戦が検討され、できるだけ地上戦を回避して日本が降伏する方策が検討されていた。

そして7月17日から始まったドイツ・ベルリン郊外のポツダムにおいて米英ソが対日戦争終結について会議が行われ、昭和20年7月26日に日本に対し戦争終結に関する勧告の宣言(ポツダム宣言)が発せられた。



【ポツダム会議の英:アトリー、米:トルーマン、
ソ:スターリン】  (ウィキペディアより)



【「鍋割」地区に掘られた防空壕の跡】
(種子島 昔・今・未来 HPより)
           【終戦間近の種子島】
前記「太平洋戦争と種子島」によると、「SHIMAM NE」が第64工兵地形大隊で作成作業が行なわれていた頃(この図面が完成したのが昭和20年7月)、「本土空襲が激しくなるに従い米軍艦載機による無防備は住民をねらった機銃掃射や、市街地や港湾施設への爆弾投下が激しくなっていった。

沖縄が占領された以降、種子島では米軍上陸に対する準備が進められ、中学生を動員して島中央部の「鍋割」地区に無数の防空壕が掘られた。戦況も厳しくなり島内の食糧不足が激しくなり、常食は芋となった。

終戦間近の8月になると米艦船が種子島を囲むように種子島を囲む様に水平線上に多数現れた。」
(この時期には既に1/2.5万戦略地図「SHIMAM NE」が完成し、おそらく実戦配布されていた事が想像される。)

「日本軍からは島民に1人1個の手榴弾が配給され、島民に対して「鍋割」の防空壕に終結する命令が下され様としていた」と記載されている。
     【終戦:血に染まる事なく終った地図】

昭和20年8月に入ってもポツダム宣言を黙殺し続けていた日本政府に対して、米軍は各都市へのB-29による空襲を続行し、8月6日広島市に初めての原子爆弾を投下、更に8月8日にはソ連が日本に対して宣戦布告し、8月9日には長崎市に二発目の原子爆弾が投下された。

そして大日本帝国政府は、8月14日ポツダム宣言受諾を連合国側に連絡、8月15日に天皇の玉音放送によって降伏・太平洋戦争の終結が国民に伝えられた。

ここに第二次世界大戦は終結し、日本進攻作戦であった種子島への上陸作戦も行われること無く終わり、その作戦用に準備されていた1/2.5万戦略地図「SHIMAM NE」も実用に供する事なく、歴史の表舞台に現れる事はなかった。

この地図が血塗られる事無く戦争が終結した事に歴史の不思議さを感じると共に、また歴史的地図である「SHIMAM NE」を紹介できた事に感謝する次第です。


血塗られる事無く終った1/2.5万戦略地図
「SHIMAM NE」の拡大図】

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