終戦前後の地図・航空測量史
(1)終戦後伊勢丹デパートで米軍が地図を作っていた!!
@ 伊勢丹デパート接収される! | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
新宿の伊勢丹と言えば「ファッションの伊勢丹」と呼ばれる程、現在でも大変人気のあるデパートであると共に新宿の街のランドマーク的存在ですね。しかしこの伊勢丹は新宿の街の歴史を見守って来た生き証人的建物のデパートなのです。 現在と同じ建物が終戦後の一時期米軍に接収されて日本及び周辺国の地図作製が行なわれ、朝鮮戦争時には作戦用地図も作られていたのです。 私の仕事だった航空写真測量会社に入ったばかりの頃、先輩から新宿の伊勢丹で米軍が地図を作っていたんだよとの話を聞いた事があったのを思い出したのが事の発端でした。 |
【東京の百貨店の中でも壮麗感が一番ですね!】 |
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シティマップル全東京10000道路地図 昭文社 平成10年発行 当時の伊勢丹は東側の赤部分のみであった。 モータープール跡が現在の伊勢丹会館・伊勢丹パーキング等になっている。 |
【CITY MAP CENTRAL TOKYO】 APPROACHES TO TOKYOより 【「G.H.Q東京占領地図」附図 福島鋳郎著 雄松堂出版 1987年発行 横浜市立図書館蔵】 第64工兵地形大隊が伊勢丹ビルと三福ビルを使用している事がわかる。また工兵隊で使用する車の駐車場がある。 |
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【米軍撮影の昭和22年新宿周辺航空写真】 昭和22年7月24日撮影, 形式:白黒, 撮影高度:1,524m, 撮影縮尺:1/9,890 |
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【昭和20年9月頃の新宿カラー写真!】 「マッカーサーの見た焼跡」 ジェターノ・フェーレイス著 【1983年8月15日 文芸春秋社発行 横浜市立図書館蔵】 夏の青空と強烈な日差しの中、空襲で焼け野原となった 新宿の町を三々五々人々が歩いているのが写っています。 三越と伊勢丹のビルのみがそそり立っているが、 カラー写真ですと遠い過去とは思えない程リアルに 再現されますね! |
【左写真の伊勢丹部分拡大写真】 3月10日の東京大空襲から半年しか経っていない のですが、三越の薄ネズミ色の建物と比較しても色鮮やかで、 さすが”必死の防火活動によって焼失を食い止めた”事 がよく判ります。(伊勢丹100年の歩みに記載有) この写真撮影直後の10月に伊勢丹は接収されます! |
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【CITY MAP CENTRAL TOKYO】に書いてある作成機関情報 「第64工兵地形大隊・伊勢丹ビル・新宿・東京」と書かれていて、この地図が伊勢丹ビルで作られていた事を証明している。 【CITY MAP CENTRAL TOKYO】表紙と凡例 【「G.H.Q東京占領地図」附図 福島鋳郎著 雄松堂出版 1987年発行 横浜市立図書館蔵】 |
【空中写真の世界 西尾元充著 中央公論社 昭和44年刊より】 かなり建物も建ちはじめている状態が写っているので、接収解除近くの写真ではないかと思われます。 この当時はまだ西側増築部分や伊勢丹別館はなく、写真では空地に写っている。ここの空地には終戦直後まで都電の新宿車庫があったのです。昭和26年に競売され三井不動産が落札したが、伊勢丹側の要望によって譲ってもらったそうです。 |
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【G.H.Q.東京占領地図 福島鋳郎著 雄松堂出版 昭和62年刊 横浜市立図書館蔵より】 (接収後の伊勢丹!:正面前にジープが止まっている) (2階はダンスホールとなっているが伊勢丹の記録には 書かれていません) |
昭和20年8月15日天皇陛下の玉音放送があり日本は敗戦となり、8月30日マッカーサー元帥があのコーンパイプ姿で厚木飛行場に降り立った。 「伊勢丹百年史」によると“昭和20年10月5日、中央終戦連絡事務局を通じ、新宿店3階以上をGHQ第64工兵基地測量大隊の使用に供するため、同月17日12時までに接収する旨の命令が伝えられた。 |
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A なぜ伊勢丹が接収されたのか? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
なぜ伊勢丹デパートが接収対象の建物になったのか、またなぜ地図作成部隊がこの建物を選んだのかと疑問が湧いてきます。この答に関する完璧な資料は見つける事が出来なかったのですが、残されている資料から推測をしてみました。 都内において接収された建物が600箇所以上にのぼったが、そのおよそ半数がUSハウスと呼ばれる個人住宅(洋館)である。 【伊勢丹百年史・新宿区歴史資料館蔵より】 GHQの主要機関は丸の内・霞ヶ関中心とする皇居周辺に集中しており、新宿で接収されたのは伊勢丹デパートと隣接の三福ビル(ここも第64工兵地形大隊が使用)だけであった。 |
【CITY MAP CENTRAL TOKYO】 APPROACHES TO TOKYOより 丸の内周辺部分地図:主要な建物が接収されている |
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〔A〕戦前から軍関係機関に使われていた! | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
「新宿と伊勢丹」式英雄著によると“あなたのところの建物は、戦時中陸軍が用いていたし、宏壮華麗で、戦災をまぬかれている。地理的にも恰好だし、ぜひ明け渡して欲しい・・・・”とあります。 戦前伊勢丹は軍の要請で“百貨店整備”と呼ばれる売場供出をさせられたのです。一回目は昭和17年11月5日に1階に陸軍航空工業会(一部)・地階に陸軍偕行社(一部) さらに二回目は昭和19年2月10日に3階を六桜社(現在のコニカミノルタ)4・5階を航空工業会、6階を社団法人日本能率協会等の軍関連の施設に使用されていた。 六桜社は戦前から航空写真機を作っており「一号自動航空写真機」は敗戦までに二千〜三千台製造され、「さくら航空写真フィルム」を使用して撮影されていたそうです。 【小西六社史 参照】 伊勢丹自体の売場はすでに終戦の1年以上前から地階・1階の一部と2階のみとなっていたのです。 |
「百貨店整備」による伊勢丹の売場供出表
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米軍が進駐後旧日本軍関係の施設を徹底的にどこにどの様な施設があるのかを調査したようです。 星条旗新聞〔STARS & STRIPES〕の記事(昭和21年3月3日付)に横浜根岸競馬場のスタンド下で日本海軍の重要な印刷機関として文寿堂印刷が水路図を作っていた事がわかった。米陸軍はただちに接収し第8軍印刷所として使用したとの記事が書かれていました。 (注:ここで一時期、第67陸地測量中隊の監督を受けて陸軍の地図が印刷されていたそうです!) 大型のオフセット印刷機が15台動いており、他に30台の印刷機があり600人の日本人労働者が働いていて、当時日本で最高級なものであったそうです) 【横浜の空襲と戦災・5接収・復興編 横浜の空襲を記録する会 昭和52年発行を参照】 |
星条旗新聞〔STARS & STRIPES〕の記事 (印刷作業が行なわれている写真が載っている) 【横浜の空襲と戦災・5接収・復興編 横浜の空襲を記録する会 昭和52年発行・横浜市立図書館蔵より】 |
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進駐軍はこの様に少なくとも戦前日本軍関連が使っていた施設を進駐後調査し、そこを接収し関係するし施設として上手く生かして利用したのでしょう。 やはり伊勢丹の場合も上記の様な航空工業会や六桜社の様な航空・写真に関係した事が、同様な作業をする第64工兵大隊(地図作成部隊)に接収される必然性があったのではないかと思われます。 ただしそれぞれの徴用機関が具体的にどの様な利用をしていたかは判りませんが事務所的なものであったのではないかと想像されます。 (注:戦前の日本測量機関であった参謀本部陸地測量部は空襲ですでに焼き出され、長野県に疎開中だった。) |
〔注釈〕 @ 統制団体としては昭和17年に陸軍航空工業会発足。昭和19年1月16日: 陸海軍の航空機産業を1本化して、航空工業会が発足した。 A昭和17年に日本能率聯合会と日本工業協会が合併して(社)日本能率協会設立:わが国における科学的経営管理の研究、指導、普及を図る諸機関の団結と連携を通じて、能率思想ならびに技術の普及向上と経営の科学化を促進することにより、わが国経済の健全な発展に寄与しようとするもの。 B偕行社は、明治10年(西暦1877年)2月15日、陸軍将校の集会所として設立され、大東亜戦争の終戦まで、陸軍将校の修養研鑽と親睦団結の場として全将校の醵出により運営されていた。また偕行社は戦前中国の地図を編集・発行していた。(昭和12年発行の南支地図・北支地図が残っている) |
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〔B〕運命的な伊勢丹のフロア構成! | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊勢丹は昭和11年に交差点側にあったほてい屋を買収し、建物を合体し外装も一体化した大増築(3万4千u)が完成していた。昭和11年当時のフロア構成図を見るととても興味深い使い道が書かれています。これが接収時の米軍のフロア使用図と類似点があったのです。 それは別図の接収前後のフロア使用状況を見るとかなり共通点がうかがえるのではないでしょうか? 接収した米軍は実に伊勢丹の施設をうまく利用しているのです。施設内容が同様だと思われるものだけでも見てみると、3階(伊勢丹)印刷所・(米軍)印刷機械室、4階(伊勢丹)歯科治療室及び医務室・(米軍)医務室、5階(伊勢丹)大食堂・(米軍)下士官兵食堂、6階(伊勢丹)御好み食堂及びグリル・(米軍)将校食堂、(伊勢丹)ホール・(米軍)劇場、(伊勢・米軍共に)庭園等々。 当初から第64工兵地形大隊用に作られていたのではないかと思われてもおかしくない建物使用内容になっているのです。これだけの設備が整っていたビルは他にはなかったでしょう。まさに打って付けの接収施設だったのです! |
昭和11年頃のフロア表と接収時の使用状況 【伊勢丹百年史・新宿区歴史資料館蔵】より |
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〔接収前・接収後フロア使用比較表〕
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ほてい屋買収・接収時の伊勢丹完成! | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔昭和8年伊勢丹完成時の写真〕 【伊勢丹100年のあゆみ・新宿区歴史資料館蔵】より ちょうど右地図と同じ時代の写真です。伊勢丹は当初から”ほてい屋”を買収する予定で各階のフロア高を合わせて建築したと言われています。 (ただし地階は今でも段差が残っているそうです。) 隣に市電(当時)の新宿車庫の電車が写っているのがよく判ります。ここが戦後伊勢丹の増築用地になるのです。 |
【昭和10年頃作成「火災保険特殊地図」を参照して 新宿歴史博物館が 平成17年発行 新宿区歴史資料館蔵】より (右側黄色のビルが同時に接収された三福ビル) |
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〔昭和11年旧ほてい屋一体化完成時の写真〕 【伊勢丹百年史・新宿区歴史資料館蔵】より (外壁を撤去してゴシック形式の外観に統一した) (現在の外観とほとんど変わらない!) |
【伊勢丹百年史・新宿区歴史資料館蔵】より (この建物形状で終戦・接収を迎える事になる) |
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〔C〕横田基地との位置関係! | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
さらに重要な点は地図作成用の航空写真を撮影する部隊が横田基地にあり、その連絡距離が近い事とGHQ司令部のある丸の内と横田基地との中間に位置していた事が大事な要素の一つになったのではないかと思われます。 全国的に大都市のデパートは殆んどが接収され、どこもPX(購買部)として利用されていて、この様に軍の実働部隊が使用したデパートは伊勢丹だけの様でした。 【アメリカ人の見た日本50年前 毎日新聞社 平成7年 横浜市立図書館蔵】 (横文字の道路標識で場所は不明 ・昭和22年7月撮影) 「64TH ENGRS」→第64工兵地形大隊 「YOKOTA A.A.B.」→横田陸軍航空基地 (29マイル) |
【CITY MAP CENTRAL TOKYO】より 「第64工兵地形大隊」と「横田基地」が 青梅街道(軍用のルート)を通じて つながっている事がよく判ります。 |
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B-29(F-13)で撮影した証拠 米軍撮影航空写真には手書きで撮影情報が書かれています。 (この写真情報は”上記新宿の航空写真”のものです)
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【HP 素顔の横田基地】より ”YOKOTA ARMY AIR BASE”の看板 昭和21年頃の横田基地・管制塔(旧日本軍のを使用) |
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横田基地の歴史 横田基地の前身は旧日本陸軍多摩飛行場として昭和15年に開設され、当時滑走路は全長1260m・幅50mで当時としては東洋一の軍用飛行場であったのでした。 終戦により昭和20年9月に米陸軍が進駐し接収された。翌昭和21年8月に第3爆撃飛行大隊が厚木から移駐、「YOKOTA ARMY AIR BASE」(略称:YOKOTA A.A.B.)(日本名:横田陸軍航空基地)の名称で正式に開設された。 (注:空軍が独立したのは昭和22年9月であった。) (注:厚木基地は以後米海軍の航空基地として使用する事になる) B-29が航空写真を撮影したと多くの資料に書かれていますが、実際にはB-29を改造したF-13と言われる写真偵察機だったのでした。 ちなみに昭和19年11月1日東京上空に初めてB-29が単独で一機飛来した飛行機が、実は写真偵察を目的にしたF-13だったのです。 (下記の航空写真がその時の写真です!) |
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B-29(F-13)と横田基地の関係 横田基地に航空写真撮影部隊がいた事の証明をする資料がありました。それは【「空のスパイ戦争」ディック・ファン・デル・アート著・江畑謙介訳・光文社・昭和63年刊・横浜市立図書館蔵】です。それには下記の様な記載がありました。 【第二次世界大戦後(昭和20年)から1955年(昭和30年)までの間、オリエント地方とアジア、特に中国とソ連の沿岸地帯は、RB-29とRB-50(写真/電子偵察機)の活躍の場であった。この四発機は、爆弾倉内に9台から11台の大型カメラを搭載でき、日本の横田基地などを基地としていた。】 (注:RB-29とは昭和22年に空軍が独立した時にF-13から名称が改称されたものです。またRB-50はRB-29を改良した機種だったそうです。) F-13の写真 【HP「史跡探訪:B-29超空の要塞」より転載】 |
【昭和19年11月1日にF-13が撮影した東京の航空写真】 【「アメリカ軍の日本焦土作戦」 太平洋戦争研究会編 平成15年 河出書房新社発行 横浜市図書館蔵 】 第3写真偵察中隊のF-13は滞空14時間の後、無傷でサイパンに帰投した。乗員は功労に値する勲章を受け、司令部は待望のネガを手に入れ、中隊は大急ぎで7000枚のプリントを作った。 【米陸軍航空軍史 第五巻 横浜市図書館蔵より】 |
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昭和29年RB-29墜落事件 (北海道新聞 平成15年5月12日号より) 戦後から9年が過ぎた1954年(昭和29年)11月7日の良く晴れた日、すさまじい爆音とともに火を吹きながらRB-29が町内上春別に墜落、「また戦争か」と大騒ぎになった。 地区で発行された回顧録によると、同機は横田基地(東京)の所属で、北海道東海岸上空で旧ソ連戦闘機に攻撃され、搭乗員十二人は落下傘で降下(一人死亡、一人不明)し、墜落当時は無人だった。付近には人家があったが、一人の犠牲者も出なかったのは奇跡近かったという。 |