横浜と鉄道

(4)京浜急行・野毛山トンネル線形の謎!
(その1)

昭文社の県別マップル(1/1万)を見ていたら、
京浜急行の日ノ出町駅・戸部駅間にあるトンネルの線形が目に入って来ました。
何とほぼ直線状に書かれているではありませんか!!



野毛山トンネル日ノ出町駅側入口
(台風でトンネル入口が崩壊した直後の写真)


昭文社発行 県別マップル「神奈川県」

日ノ出町駅を出た電車は直ぐにトンネル(野毛山トンネル)に入り、スピードを上げると左右に激しく電車はゆれ、満員電車では右に左へと揺さぶられて倒れてしまいそうになりましたよね。その体験からトンネル内はカーブの連続になっていのではないかと、何度も京浜急行に乗っている方は思っていたのではないでしょうか。

それなのに地図上では、ほぼ直線状になっているのに疑問を持ったのでした。さっそく国土地理院の1/1万地形図「関内」で確認してみましたらやはり昭文社の地図と同じ形状で記載されているのでした。(まあ地理院の地図を複製申請して作られているのですから当然ですよね。)

そこでどう考えてもこの地形図の形状は違っているのではないかと、先日先頭車に乗ってトンネル内の路線形状を観察して来ました。その結果やはりトンネル内の線路は大きなカーブが右に左へと複雑に曲がっており、とても地図の様な単純な線形ではない事が確認できました。

でもトンネルを作る時は出来るだけ最短距離を直線で抜ける事を考えて建設されるはずではないのでしょうか。(短ければその分建設費が安くなり、またスピードも出せる)この様に何故この様な短かなトンネルで連続にカーブを作らなければならなかったのか、やはりそこには理由(わけ)があった筈です。その疑問の答えを考えてみましょう!!



「新横浜駅附近の省及各社の路線図」
東京横浜電鉄 大正15年
(横浜開港資料館所蔵)より


1/1万地形図 「関内」
国土地理院 平成6年修正
老松中学校校舎を避ける為のカーブだった!?

どうしても気になったので先日京浜急行・川崎保線区に野毛山トンネルの線形をお聞きしに行きましたら、ご親切にも図面の閲覧をさせていただき確認しましたところ、やはり老松中学校の校舎を避けて通っている事が確認できました。しかしどの様な理由でその様なトンネル形状になったかは判らないそうです。無理もありませんよね、なんと言っても開通から70年以上昔の話ですからね。

しかしトンネル内の線形について二つのS字カーブがある事が判明しました。それも日ノ出町側のものは半径300mのS字カーブでした。半径300mと云うと昨年JR西日本・福知山線脱線事故を起こしたカーブが丁度半径300mだったのです!!これでは右に左に揺さぶられるのは仕方がなかったのでしょう。

/1万地形図のその線形を記入しましたところ、地形図上の線形はそれ程大きく異なる事はありませんでしたが、しかし現在の形状は老松中学校の校舎・体育館の直下にトンネルが記載されてS字カーブの表現もされておらず、やはり微妙な表現ではありますがそこは自然の山林でなく、都市的土地利用がされている箇所である為、何処にトンネルが通過しているかを正確に確認できる図面であってほしいと思っています。
中学校敷地図面を発見(トンネル記入)!

まず老松中学校にお伺いして先生に話をお聞きする事ができました。その先生によると校舎と体育館を避けて建物の横、真下辺りに野毛山トンネルが走っていると云う話を聞いた事があるそうでした。また昭和46年に体育館と昭和56年に校舎を建替えする時、トンネルの位置の影響で旧建物とほぼ同一な場所に建てられたとの話も聞いた事があったそうですが、はっきりした事はやはり当時の事を詳しく知る人はいらっしゃらないとの事でした。

横浜市の教育委員会に行けば図面があるのではないかとの情報を教えていただき、早速横浜市教育委員会・施設管理課に行き老松中学校敷地図面を見せて頂いたところ、トンネルは校舎・体育館をぎりぎりに避けて校庭直下をカーブして通っている事が確認できました!!(京浜急行の保線区で見せて頂いた図面位置と同じでした)野毛山トンネル建設時に京浜電鉄に対して校舎を避けて設計する様に等の指示が市当局からあったかは、やはりここでも判らないとの事でした。

しかし京浜電鉄が長者町5丁目までの延長計画書の図面を見ると上原トンネル付近から日ノ出町駅辺りまで直線で書かれています。そこで現況図上でその線形を引いてみると、たしかに上原トンネルのカーブと日ノ出町駅先の直線を延長すると、ほぼピッタリと計画線と一致しました。やはり横浜市当局と老松尋常小学校建物直下のトンネルは避ける様にとの指示があった事でトンネル内のカーブが作られた原因だった事は間違いないと思われます。

トンネル内の二つのS字カーブで日ノ出町側のR300のS字カーブは直接老松尋常小学校の建物を避ける為で、今一つのS字カーブは上原トンネルのR600カーブとR300S字カーブとをスムーズに接続する為のR500カーブだったのでしょう。「路線の選定には非常に困難と苦心を拂つた。その結果、幾多の研究と経て本路線を選定したのである。」(京浜電鉄株式会社 技師 相良 守)のレポートに書かれているように数々の条件をクリアして、悩み抜いた結果の路線形だったのでしょう。



横浜市教育委員会資料出展:老松中学校測量図 〔原本1/300〕
(昭和54年2月作成)


(1) 老松中学校・日ノ出町側トンネル直上位置
(校舎を避けている箇所)


(2) 校庭の下約25mをカーブ(R300)で通過する
野毛山トンネル


(3) 老松中学校・戸部側トンネル直上位置
(体育館を避けている箇所)


(4) 野毛山急斜面上住宅街から
戸部方向を望む
トンネル線上を歩いて又発見!!

老松中学校に隣接している野毛山公園から中学校を望みながら、この直下をトンネルが通過している事を想像しながら公園内を出て、野毛山山腹に張り付いた住宅街を1mにも満たない路地を降りて行くと道は急な階段となり、一気に山を下り(縦断図によると約標高15m)西戸部町と老松町の町境沿いになる谷間の道路が見えて来ました。

そこでふと空地のフェンスを見上げると何とそこには「京浜急行管理地」と書かれている看板を発見しまし!!その土地は“ゼンリンデータコム”の地図によると老松町内会館と記載されていました。きっとトンネルの真上に違いないと直感、すぐ隣にあった薬局のご主人に話をお聞きしたところ、やはりそこはトンネルの保全目的で京浜急行に買い取られて、町内会館は近くに移転し建物は取壊されて更地になったそうです。

〔京急・管財部管理部のお話ですと、土地の所有者からその土地を削って道路に面して駐車場を作りたかったのだそうです(写真6参照)。しかしトンネル上部にはある程度の”土圧力”が必要で、それが無くなるとトンネル内部の圧力とのバランスが崩れて危険な状態になるそうです。(列車がトンネルを走行するとトンネル内に圧力変動が発生する為だと思われます)その為現況の”土圧力”を確保する為にその用地を買収したそうです。また地元の人の話しではここに駅が出来るはずだったそうです。ただし京急でもその様な記録がないので確認は出来ないそうですが?!大変面白い情報ですね!〕

そして何やらお店の奥に入ったかと思ったら一枚の紙を持ってこられ見せてくれました。それは京浜急行が作成した地形形状とトンネル形状が書かれている測量図ではありませんか、宝物を見つけた思いでした。それには薬局も一部トンネルの上にかかっていました、線路がロングレールになる前までは電車が通過するのがわかったそうです。でも今はあまり感じることは無いそうです。(慣れてしまった事もあるのかもしれません)



(5) 京浜急行管理地の看板
旧老松町内会館跡地


(6) 京急管理地〔緑のフェンス内〕
野毛山トンネルはこの直下を通過している!!


(7) 野毛山トンネル用地図面
トンネルと地上部再接近箇所
〔すみれ薬品ご主人より写真を撮らせて頂きました〕
(注)保線区にもこれと同じ図面がありました。


(8) 下水道台帳平面図 (原本1/500)
横浜市環境創造局発行
トンネル上部地上再接近附近住民のお話
「駅が出来る」のうわさがあったそうだ!!

          〔伊藤酒店のご主人の話〕

トンネルと道路が交差する部分だけコンクリートで舗装されていて、子供の頃は良くそこでロウ石遊びなどをした思い出がある(他の部分の道路は砂利道だったそうです)」

「地上に家があったままでトンネル工事は行なわれた、完成した時に手土産を持って挨拶に会社の人が来たのを覚えている」

「道路と一番接近しているトンネル内部は少し地上を避ける為に内側に凹んでいる。電車の先頭車に乗って良く見ると判る」

       八百屋「大沢商店」のご主人の話〕

川本さんが家辺りに駅が出来ると言ううわさを聞いた事がある」

「すみれ薬品前の道路は数十Cm掘るとトンネル本体上部の砂利まじりのコンクリートが出て来る

「下水管はトンネル部分だけは昔のままで、前後の下水管より細い」

建直し住宅トンネルを避けて建築!!


野毛山トンネルが地上に再接近している部分にあたる家が立替えする時、トンネル用地上部の建築をさけて建てる様に京浜急行との確認が行なわれた事が判ります。


ごく最近出来たお宅でした。
これが「野毛山トンネル」の線形だ!!


横浜市都市計画局 平成14年修正 1/2500地形図「南太田・西戸部」
トンネル内線形は京浜急行図面・教育委員会図面を参考にハマちゃんが作成
道路からトンネル上部まで紙一重!?

ご主人の話ではまた薬局の前の道路に埋設されている下水管を敷設換えしようとしたら、直下にトンネルがある為通常の敷設換えが行なう事が出来ず工事が大変だったそうです。(私の作成した縦断図でもここが一番トンネルと地上が接近している所である事がわかります。約2〜3m位しかないのではないかと思われます。)

後日下水道を管理している横浜市環境創造局でお話をお聞きしたところ、やはりトンネルが直下にあり、浅い為道路面から下水管までの深さが通常では1.20m位あるところが、トンネルがある為下水道管理図面によると半分の0.70m位の深さしか取れなかった様です。この位の深さですと下水管の安全が保てないそうで、多分下水管をコンクリート等で保護しているのではないかとのお話でした。逆に道路面から下水管下部まで約1.70mですので、下水管とトンネル上部とはやはり1m位しかないのではと思われます。

なぜこの様に市街地の直下がトンネルと2〜3mと浅い所を馬蹄型トンネルにしたのか、上原トンネルの様に凾型トンネルにした方が良かったのではないかと考えられます。何とも実に不思議な構造・線形のトンネル群ですね。
〔管財部の人のお話ですと凾型トンネル上部の土地は工事の時に買収してあるそうです。しかし馬蹄型トンネルでは当時出入口部分のみ土地を買収し、他の部分の土地に付いては使用承諾書を貰うだけだったそうです。〕

建設から既に70年以上経っているのですからね!かなり劣化している事でしょう。その証拠に同時期に作られた高架部分は補強工事が続けられています。(川崎保線区の話によるとトンネル内でも補強工事は行なわれているそうです。)


そこでネット上で情報検索してみましたところ、建設産業図書館を見つけ充実した検索機能を使って探してみましたところ、非常に興味深い表題のレポートがありました。それは「土木建築工事画報」(昭和7年6月号)で“京浜電鉄横浜乗入線建設工事概要” (京浜電鉄株式会社 技師 相良 守)とのレポートでした。


これはもしかすると野毛山トンネルの事が記載されているかもしれないと思い、さっそくその図書館
に行って来ました。

〔野毛山トンネル後日談〕

「横浜と日ノ出町間は京浜電鉄の工事に属していたが、湘南社員が一部助力した買収箇所があった。それは野毛山隋道の入口であった。氏はこの任を引き受け地主に交渉を開始たものの、頑瞑不靈と云はうか全く梃でも動くでなく、何時まで経ってもラチがあかないので業を煮やし、遂に鑿掘工事に取り掛からせた。

すると地主は県庁、内務省はおろか、宮内省まで陳情と嘆願書を提出したので事態が非常に面倒になり、時の社長生野氏と共に戸部警察署へ召致された。氏は木石同様な地主の意地を痛罵し、交通機関の為に一身を犠牲にしても顧ぬと前後の真相を具さに述べたので、時の名署長であった柴傳吉氏は、事業の性質と氏の信念をよく了し、地主との間に入り乾施されたので目出度手打ちになったと云う。」


                            京浜電気鉄道沿革史  京浜急行縁鉄株式会社編集 
                             昭和24年5月発行  (横浜市立図書館蔵)より



市当局と京浜電鉄が協議の証拠!!

大正14年7月19日 横浜貿易新報に 「御所山校敷地・電鉄乗入問題」と題する記事が載っている。それによると 「市学務委員会は18日午前十時開会当局より西戸部町御所山小学校敷地に京浜電鉄市内乗入れ計画線が横断の設計となっていた為、会社と交渉の結果実施に際しては支障せしめぬという回答を得た旨を報告し、・・・・」と記載されている。

大正14年7月27日 横浜貿易新報に 「小学校敷地問題・決定の御所は池の坂に変更か」の記事があり、それによると「(池の坂)への変更説が有力になって当局の原案維持も極めて危まれる実情になってきた。」と記載され、西戸部町字御所地内(現在の旧市電通りと京急御所山トンネルの間辺り)に「御所小学校」を作る予定になっていた様だ。「池の坂」に変更との記載から現在の西中学校(当時は西戸部小学校)と思われます。

この記事の様に当時市学務委員会と京浜電鉄がこの計画に対して頻繁に交渉を行っていた事が良く判ると思います。老松中学校についても、学校校舎を避けてルートを設定し施工された事が想像されます。



大正14年7月19日 横浜貿易新報
京浜電鉄横浜乗入線建設工事概要


土木建築画報「昭和7年6月号」 建設産業図書館蔵
〔京浜電鉄技師 相良 守氏〕
                               【上記事の主な内容】

(1)本工事は当初京浜電鉄会社に於いて高輪神奈川間の営業軌道を、横浜市長者町五丁目迄延長乗入れの免許を受けたものを、湘南電鉄が計画されてから之と日ノ出町附近で接続し、湘南東京連絡の実現を計ったものである。

(2)本路線は大正十四年頃から実測に着手したが、時恰も大震災後の復興工事中で、殊に既定の区画整理計画は、些少の変動も許されずしかも当局に於いては如何なる小道路と雖も、絶対に路面交又を許さないので、路線の選定には非常な困難と苦心を拂つた。その結果、幾多の研査を経て本路線を選定したのである。
上記相良氏のレポートを読むと横浜〜日ノ出町間の路線選定・実施設計が市当局から如何に困難な条件を要求され、非常にご苦労されて現在の路線が決定されたかが想像できます。
今もカーブ・カーブの連続で満員電車が揺れに揺れて乗客はご苦労しているのですが、先人の努力を少しは感謝の気持ちを持ってこの区間を乗車していこうではありませんか。


土木建築画報「昭和7年6月号」 表題・他3枚写真共
建設産業図書館蔵
〔完成直後・野毛山隧道から上原隧道を望む〕


上原隧道(三柱式函型隧道)
〔コンクリート鉄筋作業中の写真〕
馬蹄形トンネルの「野毛山隧道」と函型トンネルの「上原隋道」の形状相違がはっきり見て取れる写真ですね。みなさんあっと言う間に通り過ぎてしまって、気が付かない人が多いのではないかと思いますが、これも既成市街地の下を通過する為の工夫だったのでした。 三柱式函型トンネルはこれは隧道ではなく地下鉄道であったのです。左下写真の様に開削(オープンカット)して函が出来た後またその上部を埋め戻す方法です。この時期既に東京地下鉄の上野〜浅草間が昭和2年に開通しており、技術的には当時最新式の工法だったのです。


(10)野毛山トンネル入口真上から上原トンネルを望む
(上記写真と平面位置はほぼ同位置)
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(11)上原トンネル入口
(直上に古い家が建っていた。以前は使用料無料だっそうだが、現在は支払っているそうです。)
トンネル平面図へ戻る


上原隧道(三柱式函型隧道)
〔露天掘り工事中の写真〕


野毛山隧道
〔隧道上部工事中の写真〕
”つるはし”を使って開削(オープンカット)して状況が写っている大変貴重な写真です。昭和3年5月に開通していた横浜市電・野毛坂〜西平沼橋間(当時の4系統)は仮設の橋梁で運転されていたのでしょうか?遠くに橋らしき物が写っています。 野毛山トンネルは基本的には山岳トンネルですが、実は上原トンネル寄り部分は地上すれすれを掘り進んだ行った事が、縦断図を見ても良く判ります。この様な部分でよく崩れない様に掘り進んだものだと感心します。とても不思議で謎の部分なのです!!


(12)上原トンネル直上の旧市電通り
(交番から真っ直ぐ手前に向ってトンネルが通っている)
トンネル平面図へ戻る


(13)野毛山トンネル入口を望む
(トンネル直上1m位は駐車場になっている)
トンネル平面図へ戻る
これが謎の野毛山トンネル縦断図だ!!


〔京浜電鉄横浜乗入線縦断図〕
土木建築画報「昭和7年6月号」  建設産業図書館蔵より
横浜乗入線縦断図の謎

驚いた事に工事概要には横浜駅から日ノ出町駅先までの縦断図が記載されていたのです。感激でした!!

それによりますと野毛山トンネルは水平ではなく(トンネル内は排水に考慮して基本的には中心から出口に向っての下り勾配であるそうですが)、日ノ出町駅から140m位まではやや上り勾配(現地の勾配標に3/1000と有)で、その後少し急な下り勾配(10/1000位・図面上での予想)がちょうどここの最地上接近地点まで続き、この先緩い下り勾配(5/1000位・図面上での予想)となりトンネルを通過している。実際に乗っていてこれ程の勾配があり、さらにこれ程勾配が中心をはずれているなど想像だにしていませんでした。これも新鮮な驚きでした。

しかし日ノ出町駅側トンネル入口地点の線路標高の決定は駅を出て直ぐに交差する県道弥生台桜木町線(高架下を市電が通る)との必要高架高で決定する。よって必然的に現況の標高で動かす事は出来ないでしよう。そうすると日ノ出町駅側出口から中心に向っての上り勾配でなければ排水できないのでこれは必然的に決まりで、3/1000とは最小勾配だったのでしょう。で戸部側出口に向っての下り勾配はトンネルを出て直ぐに二本の小道との交差部分があり、そこに架線橋を設置しなければならない為これも必然的に路面標高が決定する。この結果戸部側に向っての長い下り勾配が決まったのでしょう。また最地上接近地点で勾配が変化するのはどうしてもここをトンネルで通過する為に最低離隔高(これが何mかは不明だが)によってやはり決定したのでしょう。ここの離隔高をもっと取るとそこから戸部側に向って上り勾配になってしまう為最小の離隔高しか取る事ができなかったのでしょう。

野毛山トンネルと上原トンネルの間に約65mの開口部あり、縦断図によると両トンネルから下り勾配で出た排水はこの開口部の野毛山トンネル出口辺りが一番標高が低くこの部分に水が溜まるのではないかと気になる所です。(川崎保線区のお話ではやはり、ここで排水処理を行なっているそうです)

戸部駅から日ノ出町駅までの連続トンネル設計の必要条件に横浜市電との交差条件が影響しているのではないかと思われます。特に勾配が微妙に上下している事は上部交差・下部交差と複雑に交差している為に起こっているのではないでしょうか。交差部の条件で前後の勾配が決定していくのではないかと思います。

国立公文書館で京浜電鉄の市内乗入の条件として横浜市と市電の交差部の条件が書かれた文書があったのを見ました。
戸部〜日ノ出町間路線上下左右に複雑なんですね!!
京浜急行の戸部駅から日ノ出町駅間はこの様な平面図縦断図を見て判った事は、実にジェットコースター的な路線形状になっていたのですね!これでは電車の乗客も上下左右にとかき回されて立っていられない状態になるのもしかたないのでしょう。短区間の路線がこれ程複雑怪奇な所はあまり無いのではないでしょうか。いかに当時京浜電鉄が多大な資金と難工事をおして湘南電鉄と接続し直通運転に社運を賭けたかが、この路線形状に現れていますね。

そして現在の様な東京都内から三浦半島までの”快速京急”が生まれたのですね!!
当時の関係者の皆様ご苦労様でした。また現在もこの複雑な路線の維持管理を日々行なっておられる京浜急行の保線区の皆様にも感謝いたします。ご苦労様です!!

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