横浜と鉄道
(3) 東海道線は当初、大岡川沿いに通る予定だった!! |
明治3年工部省により東西両京を結ぶ幹線の線路選定を行い、 明治4年1月提出された[東海道筋鉄道巡覧書]の鉄道路線計画図 出展:日本国有鉄道百年史 第二巻より 日本国有鉄道刊 |
明治3年に東海道線の計画!? | ||
明治新政府と徳川幕府軍との戦争である箱舘戦争が、明治2年6月終結して五稜郭が明け渡されて 間が無い明治3年に、東京と京都を結ぶ鉄道の計画が立てられていたとは驚きですね!! |
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工部省の出仕佐藤政養(当時は与之助)による[東海道筋鉄道巡覧書] 出展:保土ヶ谷区史 横浜市保土ヶ谷区制70周年記念事業実行委員会発行〔1997年刊〕より |
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[東海道筋鉄道巡覧書]によれば、横浜よりの延長について次の様に記している。 「横浜より保土ヶ谷夫より藤沢迄之間、坂越等多高低甚不同ニ付、横浜より直ニ同所川筋通日野村と申所え引通シ、同所日野坂ト申所は小山相港候場所ニ而、此所東之方ニ切割候得ば、岩瀬村ト申辺より鎌倉手前海岸通大磯迄一円平地相成。・・・・・・」 横浜より国府津迄 十七里 保土ヶ谷から藤沢までの間は、「坂越等多高低甚不同に付」、横浜(現桜木町)より直ちに川筋(大岡川)を通って日野村に出て、日野坂を切通しにして岩瀬村(大船の隣村)へ通すのが良いと、勾配のきつい権太坂超えを避ける様に復命している。 |
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「自東京及敦賀至大阪神戸鉄道略図」 マイクロ写真より 〔交通博物館蔵〕 「ハマちゃん」が拡大・着色加工しました 横浜駅から保土ヶ谷・戸塚を通らずに藤沢に至っている事が解ります 大船は影も形もありません!! 歴史には”もし”はないのでしょうが、もしこの計画が実現していれば 後年スイッチバックによる横浜駅の度重なる 移転の問題も無かったのではないでしょうか [東海道筋鉄道巡覧書]の鉄道路線計画図(カラー)へ戻る |
最大の難所”日野坂” | ||
この計画路線で最大の難所が日野坂と言われている箇所でしょう。 今でも当時とあまり変わらない状態を留めていますよ。 果たしてこの難所を鉄道が通る可能性があったのでしょうか? 当時の地図資料と現地の写真で検証してみましょう!! |
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「神奈川県相模国鎌倉郡下柏尾村舞岡村」 明治15年測図 第一軍管地方1/2万迅速図原図復刻版 日本地図センター発行 |
1/2.5万地形図 「戸塚」 平成5年修正測量 国土地理院発行 |
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【1】 大岡川谷底平野の最頭部分(鎌倉街道) 登り切る手前状況が見て取れますね |
【2】 尾根筋(国境)の切り取り部分 かなり大きく山を切り取っている事がよく判る |
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【3】 切通しから大船方向への下り坂部分 ここが最大勾配です。かなり急ですね!! |
【4】 日野坂のゆるい下り坂部分 この位の勾配でも果たして鉄道は可能か? |
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迅速図原図の図郭外に描かれている 国境部分の切通しのスケッチ (かなり大きく切り取られている事が 見事に描かれていますね) 空想図〔B図〕へ戻る |
迅速図原図の図郭外に描かれている 切通し部分の断面図 (21.5mも切り取っています) |
実現した路線の最大の難所”清水谷戸トンネル” | ||
[東海道筋鉄道巡覧書]によれば「坂越等多高低甚不同に付」と書かれている様に、保土ヶ谷・戸塚間における権太坂越えと呼ばれる難所が鉄道路線の阻んでいたのでした。 江戸時代の東海道は徒歩交通であった為、武蔵・相模国境の小山脈を越すのは、水はけの良い尾根筋(少々勾配が急であっても)を登って行くのが一番よい路線であったのでしょう。 勾配に弱い鉄道の場合尾根筋とはいかないでしょうから、少しでも勾配の少ない谷筋を行ける所まで行き、どうしても超える事の出来ない山にぶつかる所で、切通しかトンネルで反対方に出る方法になるのでしょう。 ここの権太坂も尾根筋をさけて帷子川支流の今井川の谷底平野に沿って路線を敷設し、武蔵・相模国境の小山脈と出会った所に清水谷戸トンネルを貫通させて戸塚側に通した。 |
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地図で見る横浜の変遷 T 1/4万 平成8年 日本地図センター発行 (明治39年測図 1/2万地形図を縮小編纂) |
「神奈川県相模国鎌倉郡品濃村上柏尾村」 明治15年測図 第一軍管地方1/2万迅速図原図復刻版 日本地図センター発行 |
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【1】 戸塚側から清水谷戸トンネルを望む 左のトンネルが明治20年に開通した時からの物 (レンガ張りで逆U字型のトンネルです) (他のトンネルは馬蹄形です。ここだけでは?) 現役として使用されているトンネルとしては 日本で最古のトンネルです!! |
【2】 トンネル近くから東戸塚駅方向を望む 勾配はかなり緩やかですね!! 高層ビルが立並情景をだれが想像したでしょうか 線路脇に置かれた現役最古のトンネルの 記念プレートが置かれていました。 |
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日本鉄道百年写真史より |
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清水谷戸トンネル(複線化完成当時の写真) 明治31年に下り線が開通した時の写真だそうです。上記の写真と反対側にあたる保土ヶ谷側から 撮影した写真です。 周りの崖・山の斜面等は今も当時の雰囲気を よく残していますよ!! |
記念プレート 平成3年にJR東日本が作成した物です。 「現役として使用されているトンネルとしては 日本で最古のトンネルである事」が書かれている。 記念プレートは、台座からはずれ、字も判読できない状況で置かれていて少々寂しい気持ちです。 |
当初計画線と実現線との地形的比較 | ||
明治3年の東海道筋鉄道の計画路線が実行されずに、明治20年に実現した現在のルートになったのは何が原因であったのか? 独断と偏見で考察してみました。 | ||
周辺地形の勾配を比較して @ 〔日野坂〕 「日野坂」周辺の鎌倉街道に沿った縦断図を見ると、横浜から大岡川沿いに日野坂近くまでは比較的緩勾配(約5/1000)で特に問題点はないが、日野坂前後の勾配が非常に急勾配(約110/1000)と、到底鉄道では走れない勾配となる。 またその後の大船方向の鼬川平野までの勾配(約16/1000)もやや急勾配になってしまう。その結果どうしてもトンネルが必要になる事でしょう。それも400m位の当時としては長いものとなりそうです。 地形図〔B図〕へ |
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周辺地形の勾配を比較して A 〔品濃坂〕 「品濃坂」周辺の勾配を見てみると、保土ヶ谷方向から今井川沿いに登って来る勾配(約11/1000)も比的緩い勾配で武蔵・相模国境の小山脈に突き当たる事になります。 この後「日野坂」と異なるのは、小山脈をトンネル(約200m)で抜けた後の地形がほとんど今井川沿いの 勾配と同じ程度の地形になっていて、その勾配(約12/1000)も緩やかである事です。 地形図〔A図〕へ |
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勾配を比較しての結果 (地形的に見て) @ 上記両坂を比較すると「日野坂」は国境の小山脈を挟んで非対称的谷底平野であり、逆に「品濃坂」は対称的谷底平野であった。この事は対峙する谷底平坦部の先端の標高が非対称的谷底平野では段差が出来るのに対して、対称的谷底平野ではほぼ同じ標高になる点である。 その為、非対称的谷底平野では勾配がどうしても急になる。その典型が碓氷峠です。(「日野坂」ここまで の差ではないですが基本的には同じ条件になります) A 「保土ヶ谷夫より藤沢迄之間、坂越等多高低甚不同ニ付」と報告書にある様に、当時の旧東海道筋の「品濃坂・権太坂」だけを考えていて、周辺の地形調査まで詳細に行われなかったのではないでしょうか。 片や「日野坂」の方は既にこの部分鎌倉街道として切通しも出来ており、状況判断が容易に出来たの でしょう。その為明治3年の報告書では「日野坂」の方に軍配を上げたと想像するものです。 またこの当時詳細な地図は無く、報告書の「自東京及敦賀至大阪神戸鉄道略図」も伊能忠敬の地図 を基にして作られていたのでしょう。 B その後実際に横浜から東海道線を延長する事が決定するのは、明治19年7月19日中山道経由での建 設が進んでいた東西両京間鉄道が東海道経由に変更された事によります。 この年代になるとこの辺りにも 明治15年測図の第一軍管地方1/2万迅速図(上記図あり)の地図が作成されて詳細な地形情報が既にあったのです。 これにより双方の地理を容易に把握する事ができ、両坂を比較検討してきっと現在の東海道線のルート に決定したのではないかと考えられます。 |
でもスイッチバックにしてまでなぜ? | ||
地形的に旧東海道沿いにルートを設定する事に問題点は無い事が証明されたのでしたが、大きな問題点として浮上して来たのが横浜駅(現桜木町駅)の位置でした。 当時の横浜駅(現桜木町駅)は旧東海道筋から大きく外れた開港場の入り口に当たる野毛浦沖を埋立て地に明治5年開業していました。この当時、新橋〜横浜間鉄道の目的は開港場(首都の外港としての横浜)と日本の首都である江戸を鉄道で結ぶ事自体に政治的・社会的目的があったもので、後年横浜から先に鉄道が延びる事を考えてその位置を決定したものでは無かったのでしょう。 しかし 明治4年1月提出された[東海道筋鉄道巡覧書]では、当時の横浜駅(現桜木町駅)よりそのまま先、大岡川沿いに延長される事にはなっていました。この報告書通りに開通していればスイッチバックの弊害が起こらずに済んだことでしょう。 |
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1/2万地形図 「横浜区」 明治24年11月28日更改出版 陸地測量部発行 |
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結 論 (1) 上記ルート調査の結果、小山脈越えに関しては 「品濃坂」周辺の方が最小勾配でトンネルも最短で済み、鉄道建設条件の技術的・金銭的に最良な選択であったのではないでしょうか。 (2) また鉄道建設の条件として、原則的に旧東海道沿いにルートを取る事が重要ではなかったのではないかと考えられます。人家のある城下町も宿場も街道筋にあるのですからね!! 停車場は旧宿場に設置する方針があったようです。(保土ヶ谷区史「P208」に記載有) (3) さ保土ヶ谷宿・戸塚宿の有力者等による積極的な誘致・陳情・協力があったのではないかと思われます。 実際に保土ヶ谷宿では岡野・荒波などの有力者が用地を提供するなどの尽力していたとの記載があります。(保土ヶ谷区史「P208」に記載有) (4) 仮説ですが実は一番の原因は、明治政府がこの延長計画の最初から、東海道線は横浜駅を通らないで神奈川駅から保土ヶ谷方向へ直進するルートを考えていたのではないでしょうか? しかし明治10年代の横浜の発言力はまだ大きなものがあった為、横浜駅を通らない案にはならず、暫定的な処置として横浜駅で折り返して保土ヶ谷方面に通じるスイッチバック方式のルートになったのではないでしょうか? 明治政府は何時の日にかは横浜駅を通らないルートにする事を前提に、この非常に効率の悪いスイッチバック方式で東海道線を開通させてのでしょう。 実際に早くも東海道線全線開通(明治22年)から、5年後の明治27年・日清戦争が勃発し軍によって神奈川〜保土ヶ谷間の直通線が敷設されました。 この後横浜駅をめぐっては長年に渡って紆余曲折を繰り返す事となるのです!! この問題に対する経過が記載された資料を探していますが、未だその資料を発見できないでいます。 |
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