昔の鉄道の話題から

【横浜貿易新報の記事より】

(1) 明治39年に湘南新宿ラインが走っていた!!


10月1日より湘南新宿ラインの電車が大幅に増発され東海道線と東北線の直通が本格化しようとしています。

東海道線の電車が新宿を経由して東北線に乗り入れる様になってからまだ3年しか経っていないのですが、実は明治39年にすでに新宿を経由して横浜発日光行の直通列車が走っていたのでした。

横浜日光間直通計画 
 
明治39年6月1日付〕  
横日直通開始
   
〔明治39年6月4日付〕


「作業局と日鉄との間に交渉中なりし、横浜、日光間直通旅客列車が7月上旬より運転を開始するとに、決定したるが当分の内双方より午前発車し線路は東海道線は大井信号所より分岐し日鉄山手線に進入し、赤羽を経て日鉄本線に入る順序なるが運転時間は約6時間を要すべしと云う」


外客観光の便に供する横浜日光間直通列車は左の通り毎日一回宛発することとし愈々来る十六日頃より施行する由。

横浜発午前七時二十分 日光着午後一時五十七分
日光発午前九時      横浜着午後三時十分

但し停車せざる駅は・                      
 (上り)△山の手線 目黒・エビス・ 目白・池袋
             △本線  蕨・浦和   
 (下り)△山の手線 板橋・目白

                         目的は

新聞の記事によると列車の設定した目的は横浜に船で到着する外国人観光客の日光見物円滑化に在った事が判ります。また当時から日光は外国人観光客には人気の場所だったのでしょう。

                  なぜこのルートが出来たのでしょうか?

この当時横浜・日光間の鉄道は大井信号所までが官設鉄道で、残りは山の手線を含めて日光までは私有鉄道である日本鉄道鰍フ路線でした。今で言う相互乗り入れのはしりだったのでしょう。しかしこの年の明治39年11月1日鉄道国有化法により日本鉄道は国有化される事になるのです。

山の手線は日本鉄道によって市街化が進んでいた東京の中心部を避け(当時このルートはほとんどが田や畑で用地買収費が安かった)北関東や東北方面が主要な産地であった生糸(明治時代の代表的な輸出品)を横浜に輸送する目的で敷設されたのでした。

その為貨物輸送はすでに明治18年の山の手線開通時から直通運転されていました。また旅客列車も赤羽から新橋まで日本鉄道の列車が「片乗入れ」で運転されていましたが、官設鉄道から私鉄に旅客列車が乗入れた最初ではないのでしょうか?

この当時新宿経由でしか東海道線から東北線方面(当時は日本鉄道)にはいけなかったのです。
下記の路線変遷図を見てもらうと判る様に、まだ新橋から上野までは鉄道が開通していなかったのです。

大正3年に新橋〜東京間が開通し、実に東京〜上野間の開通は大正14年までかかっていたのです。
 (注)上記の路線変遷図を見て上野・秋葉原間が書かれていますがこれは貨物線が地上線で走っていたのです。


明治20年頃の大崎附近  〔出展先地図名不明・調査中〕
                      
                    
時代によって異なるルート

 東海道本線と東北本線とを結ぶ列車の走ったルートが異なっているのが面白いですね!! 

  @ 明治39年のルート  (赤線ルート)〔下図〕

     この当時全ての区間が非電化で蒸気機関車が活躍していた時代でした。
     山の手線も下図を見ていただくと判る様に、環状線になっていないで、東京の都心を避けて
     東北と横浜を結んでいた事が判ります。
       (このルートが一番最短距離です!!)

  A 昭和36年・湘南日光号のルート   (青線ルート)〔下図〕

     当然この頃は山の手線は環状運転され、さらに昭和初期に大規模な線増で山の手線・京浜東北線の
     それぞれ複線分離運転、及び東海道本線と東北本線の線路も複線で結ばれており、東京駅・上野駅
     経由での伊東〜日光間の直通運転が可能になっていました。
       (二番目に短いルートですが、それ程@ルートと大きな差はありません)

  B 平成16年・湘南新宿ラインのルート   (緑線ルート)〔下図〕

     流通革命により、鉄道貨物の必要性が無くなり、品鶴線(東海道貨物線)〔現在横須賀線が走って
     いる所〕と山の手貨物線を旅客輸送に転用して東海道本線と東北本線を直通運転を行うことが
     出来る様になりました。
      またAルートでの運転は新幹線に一部ルートが使用された為直通運転は不可能になりました。
      (下コラム参照)
      (このルートが一番距離が長いのです。)
     一番長いルートではありますが、やはり渋谷・新宿・池袋という副都心となったターミナルと、
     東海道本線・東北本線の各駅が乗換えなしで行く事が出来る様になった事が大事なポイント
     ではないでしょうか。

鉄道路線変せん史探訪 パートV 
〔東京附近路線網変遷図〕 を下図に使用
 
                       準急”湘南日光”号の活躍

第二次世界大戦後の昭和36年から伊東〜横浜〜東京〜日光間を準急”湘南日光号”が東海道線・東北線を直通で結んでいました。走っていたのは昭和36年4月1から昭和45年9月30日の間でした。
(昭和41からは急行に格上げ)

この電車は東京まで東海道線の線路を走り、東京から上野間は山手線・京浜東北線の他に複線の旅客線が走っていて上野駅に向かったのです。(現在神田駅のすぐ脇を東北新幹線が走っている所がそれにあたります)
正式には東北本線は東京〜青森間なのです。しかしその当時でもめったに東北線の列車が東京駅まで来る事はありませんで、そのほとんどの列車は上野で終点となっていました。

つまり、東海道本線と東北本線の東京駅をはさんでの直通運転ができたのでした。(現在はできません)
私も一度昭和40年代に何の列車かは忘れましたが、東北本線から東京駅に着いた記憶があります。

当時国鉄と東武鉄道は日光への観光客競争をおこなっており、国鉄は準急としては豪華な157系と言われる電車を登場させた。それを東西の観光地である伊東・日光間を直通で走らせる思い切った事をしたのでした。しかしその後やはり日光観光の勝負は東武鉄道に上がったようです。現在東京から日光に行く直通電車は走っていません。

東武鉄道のパスネットより
日光型電車と呼ばれた「157系」電車
(この写真はその後特急「とき」号に使われた時のもの)
現在日光観光の花形電車・東武鉄道の特急「スペーシア」
JRと東武が新宿〜東武日光間で特急直通運転開始!!
(平成18年春乗入れ)


平成16年10月5日・東京新聞より
   
   長年のライバル同士がついに協力する事に!!

JRで日光に行く直通列車はなくなって久しく、日光に電車で行くのは東武の特急が常識で、我が世の春を謳歌しているものかと思っていたら、突然のこの新聞記事には驚かされました。

鉄道同士で争っている内に、時代はマイカーで高速道路を利用して日光観光に行くのが主流になったのでしよう。

また東武鉄道自慢の特急「スペーシア」も浅草駅始発では乗客の利用勝手がどうしても悪く、乗車率の悪化を招いていたのでしょう。

そこで特急「スペーシア」を都心のJR新宿駅始発にしてアクセスを良くし乗客の増加を図ったのでしょう。JR側も新宿から最短距離で日光に直通列車を走らせられるメリットがあったのでしょう。

お互いの利害が一致してこの歴史的な相互乗入れが実現したのでしょう。再来年の春が楽しみです。

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