昔の鉄道の話題から

【横浜貿易新報の記事より】

(3) "日本初"急行料金徴収列車!!

明治15年3月に新橋〜横浜間で急行列車が運転されました。その時以来”急行”とて特に料金を徴収される事はなく、主要駅のみ停車するだけの急行列車であったそうです。
この”最大急行列車”から初めて乗車券の他に”急行列車券”が必要となった記念すべき列車であったそうです。    
日本実業出版社刊  「鉄道の歴史がわかる辞典」参照

新橋神戸間を今までの急行列車より二時間程時間が短縮され、更に新車のボギー車にし新聞の記事に依ると「
室内の構造性清麗快濶、本邦に於いては未だ他に其比類を見ずと言う」の記載の様に、かなり豪華な列車であったと思われます。 

この列車が事実上の特急列車であったのではないでしょうか。それを特別急行列車の言葉でなく最大急行列車と表現したのでしょう。なぜならば所用時間も他の急行列車より二時間短縮され、又特別な新造車両も使用された事で、この列車が現在の特急列車と同じと考えて良いのではないでしょうか。

列車の愛称名はまだなく、他の列車との区別は最大急行列車との名称のみであったようです。


横浜貿易新報    明治39年4月7日

最大急行列車  

官設東海道線に於いて来る十六日より実施する最大急行列車(新橋神戸間十三時間四十分)の停車駅は上下列車とも途中平沼・国府津・山北・沼津・静岡・浜松・豊橋・名古屋・大垣・米原・馬場・京都・大坂・三ノ宮の十四駅にして其の発着時間左記の如し。(後略)

辺鄙な駅にも停車している!?

上記の停車駅を見ると横浜駅は当然通らず、直通線上の平沼駅に停車していますね。更に主要都市ではない駅として「国府津・山北・沼津」の駅は箱根越えの機関車連結の為の停車だろうと思われます。又後聞きなれない駅として「馬場」があります。この駅は今の「大津駅」です。(大正2年から大津駅と呼ばれる様になったそうです)


横浜貿易新報    明治39年4月14日

東海道線列車変更概要   

鉄道作業局が来る十六日より東海道列車に一大革新を断行する事に就いては、しばしば報道したるが其の施設の概要は、新橋神戸間に上下各六回の急直行列車を運転し、尚京浜間には上下各四回、新橋横須賀間には上下各一回の急行列車を運転し、又京都神戸間と大坂神戸間とに上下各二回(大坂神戸間は京、神急行の為詰り上下各四回となる)の急行列車を運転し旅客の便に供するに在り。左に急行及び直行列車の設備及び座席定数発着時刻等の概略を挙げて旅客の便に供す。

  午前八時発新橋神戸間急行列車

是は所謂一、二等最大急行列車にして上下とも其日の午後九時四十分即ち約十三時間半にて到着し、従来の急行列車に比すれば約二時間短縮せり、車両は全て新製にして一、二等室の外特別室(是は貸切の請求ありたる時使用すべきもの)あり喫煙室あり、食堂車あり、一車六十フィートのボギー車にして、室内の構造性清麗快濶、本邦に於いては未だ他に其比類を見ずと言う、座席定数は一等二十二人(特別室を含む)二等百十八人を容る。
特別室とはなんぞや!!

どうもこれは現在で云うところの”個室”の事ではなかったでしょうか。
「貸切の請求ある時使用すべきもの」とあり、5月4日の記事に「貸切にしない時は6人を乗車せいむ」とある事で、6人が座るだけのスペースを持った個室だったのでしょう。
 
きっとこの特別室が鉄道においての”個室”の元祖だったのではないでしょうか?

横浜貿易新報    明治39年4月15日

急行列車券取扱手続  

  鉄道作業局にては明十六日より実施する急行列車券取扱手続を大要左の如く制定せり。

  1.   急行列車券を所持せず(亡失場合も含む)急行列車に乗車したる場合は、旅客所持の乗車券面発駅 よりの哩程を計算して相当料金を徴収す。
2.   百五十哩未満の急行列車券を以って百五十哩以上の区間に乗車したる時又は劣等の同券を以って優 等車に乗換たる時は何れも其差額を徴収す。
3.   急行列車の使用期間は百五十哩未満は三日間、百五十哩以上は五日間とす。

各直通列車の編成  

鉄道作業局に於いては来る十六日より実施する急行列車及び新橋下関直通列車の編成左の如し。
〈最大急行列車は二等車、二等食堂合造車、一・二等合造車、郵便緩急車の四両とす。〉
(後略)

郵便緩急車とはなんぞや!!

真空ブレーキが実用化される以前の鉄道車両のブレーキは、すべて手動であり、機関車以外は、車掌やブレーキ手が乗車している車両にしかブレーキが装備されていなかった。このため、車掌が常時乗務する設備が備えられている車両のみを緩急車と呼ぶようになったらしい。JNR-PC; Japan National Railway - Passenger Car 参照

結論:郵便緩急車とは、車両編成の最後尾の車両で郵便車と車掌車(ブレーキが装備された車両)を兼ねた車両であった様です。

それにしても列車編成がたった四両であったとは、短い編成だったのですね。それも一両は客車でなく業務用車両であったので、実質は三両と云う事になります。
多分乗車人数を少なくしてでも、スピードUPして所用時間の短縮に重きを於いたせいではなかったのでしょうか。


横浜貿易新報    明治39年4月16日

急行列車券に就いて  

東海道線にては愈々今十六日より列車運転時間を改正し、各等連結の最大急行列車を運転する事となり、其の急行列車に乗車するものは普通乗車券外に更に急行列車券を購入するものにて、乗車心得の為め重複を厭はず左に記さん。

急行列車券発売駅
新橋、平沼、国府津、山北、沼津、静岡、堀の内、浜松、豊橋、名古屋、岐阜、大垣、米原、馬場、京都、大坂、三の宮、神戸

▲列車券の種類及び等級色別
  第一種 百五十哩未満に使用するもの
  第二種 百五十哩以上に使用するもの
  右二種類共等級毎に左の色別を為す。

 一等 黄色  二等 青色  三等 赤色
  但し各等共第一種は一條の白色斜線、第二種は二條の白色斜線を画す。

乗越の場合
百五十哩未満に使用の列車券を以って百五十哩以上に乗越したる時は其の差額料金を徴収せらるべし

使用期間
百五十哩未満  三日間   百五十哩以上  五日間

停車駅でない駅でも発売されている!?

横浜駅でも発売されていない急行列車券が停車駅でもない二つの駅で発売されているのです。
まず岐阜駅はそもそも停車していない事の方が不思議なほどですね!!

残りの一つが「堀の内駅」です。はたして何処にその駅があったのからして疑問な駅ですね。記事によると静岡と浜松の間に書かれているので、この間にあるのでしょう。調べて見ましたら現在の「菊川駅」がその当時「堀の内駅」と呼ばれていた様です。(町村合併前の古い町名が堀之内町であった)

では現在でもそれ程の主要駅でもないこの駅で、なぜ急行列車券が発売されたのでしょうか?

調べて見ますと下記のHPを見つけました。多分に当時の主産業であった”お茶”の生産に関係があったのではないかと思われます。この辺りは牧の原台地でお茶の一大生産地であり、製造・販売の中心地であったのではないでしょうか。

その為、この「堀の内駅」急行列車券の発売がされたのではないかと思われます。それ程この駅が当時は重要な位置をしめていたのでしょう。

日本の主な輸出品目は生糸と緑茶でした。そのため、緑茶の生産に資産家が財を投じて参入し、大量に生産するために機械化が業界から望まれていました。この時代に、人生を賭けて開発に没頭した製茶機械開発の先駆者が高林謙三です。謙三は松下幸作氏と機械製作に関する特約を締結し、明治32年8月に静岡県堀之内町の工場で製造をしていたそうです
http://www.ochakaido.com/index.htm  参照


横浜貿易新報    明治39年5月4日

最急行列車の貸切室廃止  

午前八時新橋神戸間両駅相互より発する最急行列車には、一等車内に特別貸切室を設け四人分の賃金を支払うときは何人にも之を専用せしめたりしが、実施の結果により現在の一等車にては充分の乗客を収容する能はざる様あるに、同貸切室の設けは益々以って其狭隘を感ぜしむるに外ならざれば、昨日より皇族の方々若しくは貴顕等特別の向きに限り貸切室を使用せしめ、其の他は定員六名を乗車せしむる事としたり。

たった半月で貸切室廃止!!

やはり三両の客車だけでは輸送力が足りなかったのでしょう。特に一等車の定員二十二人ではいくら明治であっても少々少な過ぎだったと云う事でしょう。

でもお金さえ払えば誰でも乗車できたとは、当時としては画期的ではなかったでしょうか。それがやはり皇族や特別な人間に変更されたのは、きっと其の筋からの圧力があったのでしょうね!?

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