緊急速報  

福知山線脱線事故箇所は昔は直線だった!!

JR西日本・福知山線尼崎駅〜塚口駅間で4月25日に発生した電車脱線転覆事故の報道がされて
疑問に感じたことは、何の変哲も無い平坦地に何故急に半径300mのカーブがあるのかな?
の疑問でした。基本的には障害物のない平坦な箇所で鉄道を布設する時は直線で通す筈だからです。
わざわざ曲線にする必要は無い筈です。
そこには曲線にする理由があったのでしょう!!手持ちの地図を調べたらその訳がわかりました!!


〔第1図〕
スーパーマップル詳細京阪神道路地図
平成15年 昭文社発行


〔第2図〕
1/2.5万地形図 「大阪西北部」 
平成7年修正 国土地理院発行


〔第3図〕
ゼンリン・データコムを下図として
使用して名称記載・着色しました
〔ハマちゃんが加工〕


〔第4図〕
上図に名称記載及び着色加工を施した図面
〔ハマちゃんが加工〕
福知山線の歴史は古く、明治24年に川辺馬車鉄道として(尼崎)尼崎港〜伊丹(現川西池田)間が開通した事に始まります。明治25年に摂津鉄道に改称し、明治30年阪鶴鉄道に譲渡されその年宝塚までが開通したそうです。そして明治32年には福知山まで開通し、明治40年になって国有化され、明治45年福知山線と改称されたそうです。FujiyamaNETを参照しました。】

そこで問題の事故地点の曲線の件ですが、開通当初の線路は官設鉄道の尼崎駅に乗入れてはいないで、線路は東海道線を横断して尼崎港に至っていたのでした。〔第2図〕を見ると問題の曲線地点から延長線上に家屋が無い空白部が続きさらにその先は東海道線を挟んで土手の記号が見て取れます。そうですその部分が当初の線路の跡なのです。(この通称・尼崎港線は昭和59年に廃止された)【〔第4図〕〔航空写真 1〕も参照】

その後昭和9年に尼崎駅〜塚口駅間(今回の事故区間)のみ複線化されたとの記載あり、多分この時点で問題のカーブ(西側の路線)が作られたのではないかと思われます。〔航空写真 1〕の昭和23年の航空写真を見るとはっきりと二つ(上下別々)の線路が写っています。尼崎駅乗り入れは明治31年に連絡線を設けて大阪との直通運転を始めたそうです。(多分真中の線路だと思われます) wikipediaを参照しました】

いかにも尼崎駅に列車を乗入れる為に無理矢理、最小限の路線変更で曲線が設計された事が想像されます。尼崎駅に乗り入れ開始された頃は蒸気機関車に引かれた2・3両の客車がのんびりと走っていた事でしょう。その為この曲線であっても特に支障は無かったのでしょう。

戦後も長い間蒸気機関車からディーゼルに変化はあったでしょうが、昭和56年に尼崎駅〜宝塚駅間の電化・複線化されるまではのどかなローカル線の状態であったのでしょう。複線・電化後もこの時点ではやはり大きな支障は無かったでしょう。

問題は平成9年にJR東西線が開業し福知山線の電車が乗入れる様になってからでしょう。それまで上り線は真中の線路を使用していた様(平成7年撮影の航空写真にはハッキリと線路が写っています)で、もしこの上り線が使われていれば今回のカーブによる脱線は無かった事でしょう!!

しかしJR東西線に乗入れる為上下線共西側のカーブの急な路線に統一された様です。(真中の路線では多分東海道線の高架での乗越しが出来ないのでしょう。でも尼崎駅を高架ホームしてでも良かったのでは?)この時点でJR西日本は福知山線と東西線・片町線の相互乗り入れし、問題の207系電車で高速電車運転を行う様になった事により事態は一変するのです。

そうです、ここで今回の脱線事故現場のカーブがネックになったのです。高速運転でなければさして支障がが無かったR300のカーブが、伊丹方向から約4kmの直線を時速100kmで走って来ての急なカーブになってしまったのです。低速で2・3両の列車が走っていた頃に作られた直線からの急なカーブ(一説には緩和曲線が殆ど無いとの情報もあります。多分低速運転時代は問題は無かったのでしょうが?)を高速電車が走るのですから、高速化する時にこの箇所の曲線改良を行う必要があったのではないでしょうか!!

名神高速道路が直前にあったりでかなり制約があるのでしょうが、若干の曲線改良だけであってもスムーズな高速運転が行えるする事が出来たのではないでしょうか!!地下鉄日比谷線・中目黒駅近くの脱線事故も東横線の線路に無理な曲線で取り付けた為に起きた事実もあり、今回事故地点の曲線も検証してみてほしいものです。


〔航空写真 1〕
昭和23年 米軍撮影 
国土地理院航空写真閲覧サービスを参照


〔航空写真 2〕
平成9年 国土地理院撮影
国土地理院航空写真閲覧サービスを参照

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