【上大岡資料集】    

@ 昭和7年頃の2番写真辺りの写真

             現在の写真の道路はこの交差点の
             斜め左にある細めの道路です。
(資料出展:港南の歴史 港南の歴史発刊実行委員会 昭和54年発行)

参謀本部陸地測量部 1/1万地形図
「上大岡」 昭和14年修正測量
【明治前期・昭和前期 横浜都市地図
柏書房株ュ行】より
      昭和14年の地図と写真との対比

位置から方向を撮影した写真だったのです。
位置が現地で撮影した「写真2」の交差点です。
オレンジ色線が写真にハッキリ写っている道路です。
黄色線が湘南電気鉄道の路線です。

写真の時期(昭和7年)近くの地図と見比べて見る事ができる貴重な資料です。写真撮影から地図が出来た年まで7年位たっているのですが、ほとんど変化がみられません。

鉄道が開通してからもこの辺りでは、見た目では何の影響も無い様です。

ハマちゃんが昭和31年に小学一年生で上大岡に引越した頃はまだ所々に水田が残っていた様に覚えています。それでも小学校を卒業する頃(昭和37年)にはほとんどこの辺りの水田は無くなってしまった様です。

上大岡の駅から10分位のところですので高度経済成長期にあっという間に宅地化が進んで、市街化してしまいました。古き良き時代があった事を記録している写真・地図なんですね      
                                                         「写真2」へ戻る


A 15年前の航空写真に残っていた畑・山林


(桜岡小学校創立80周年記念航空写真より)


1/1万地形図「上大岡」平成7年修正
国土地理院発行
右上地図の「わ」の字にある所から北に上がる道が、
120年前の小道の入り口になります。

15年前の航空写真にははっきりと畑と山林が残っているのが判りますね!!

                      「写真3」に戻る


B 町の宝・庚申塔
文化9年(1812年) 久保村・最戸村両講中と 
書かれています。
 
もう一つの道標には 「北ぐみやじみち・南かまくらみち・最戸村 元禄9年(1696年)」と書かれています。 〔今から約300年前〕
庚申塔には 右から「見ざる・聞かざる・言わざる」の
三匹の猿が彫られています。

今の日本人にも受け継がれている精神ですね。

                     「写真4」に戻る


C 亜炭

   出展元:大正10年測量  陸地測量部発行           1/2.5万地形図「戸塚」 (拡大してあります)
左図の赤枠部分に鉱山マークと「あたん」と鉱種名が書かれています。

ちょうどその位置には現在千手院と千手院幼稚園があります。

また、左図の青丸部分に卍記号があるのが判るでしょう。ここが関東大震災(大正12年)前にあった千手院です。

建物が倒壊した為、鉱山記号の位置の現在地に移転したそうです。

今でも地中には亜炭が残っているのでしょうか?
ご存知の方は教えてください。

(資料出展:港南の歴史 港南の歴史発刊実行委員会     昭和54年発行) 
                     「写真5」に戻る


D 青木神社の版画図

〔青木神社の境内にある案内板〕
青木神社の境内にある案内板に書かれている江戸時代の版画図です。

この案内板は大岡川の河川改修し遊歩道を整備した時に設置されたものです。

いかにも豊かな鎮守の森の雰囲気が感じられますね!
また大岡川の水量も多く、流れも早そうに見て取れますね。

実際ハマちゃんが小学生の時(今から40年以上前)は、この辺りの川床は岩肌が露出し、滝までいかないが流れに段差があり、水しぶきが上がりこの絵まではいかないが、ちょとした風情のある景色だったのを思い出します。

その景色が最初の河川改修が行われた昭和38年位までは見られたものです。

                    「写真7」に戻る


E 県道の道路境界石

どっしりした黒い御影石か?に石の上・表面には小さく丸が掘り込まれており、そこが境界の中心になっています。

また道路側の側面には「境」の文字が刻まれています。

今までよくぞ道路工事等でなくならずに残っていたものです。

今の境界杭は味気の無いコンクリート製が多く、この様な職人技の杭がこれからもだれにも気づかれる事もなくとも、ここの場所にいつまでも残しておいてほしいものです。

                      「写真8」に戻る


F 鎌倉街道と笹下川の変遷
明治15年(1882年)測量
1/2万迅速図・上大岡村
大正10年(1922年)測量
1/2.5万地形図「戸塚」
昭和6年(1931年)修正
昭和26年(1951年)
資料修正
1/2.5万地形図「戸塚」
昭和51年(1976年)
第2回改測
平成5年(1993年)修正
1/2.5万地形図「戸塚」
この時代は鎌倉街道の分岐点は右下に(イ)と書かれている所がかなさわ道からの分かれ道でした。
笹下川も大きく蛇行しています。

かなさわ道が微高地である自然堤防上の畑の真中を通っているのが良く判りますね。
この地図で鎌倉街道との分岐点が現在の位置に描かれています。

しかし笹下川の流れは明治15年と変わっていないのではと想像できます。
一見流れが少し違うのですが、多分作図の精度的な問題だと思われます。
わざわざ川を避けて新道が作られている事からも想像できます。
この地図では鎌倉街道がかなさわ道から南に真っ直ぐ伸びているのが描かれていますね。

実際にこの様な道があったのでしょうか?
知っている方は教えてください。

また、この地図で笹下川が現在の形に改修されているのが判ります。
この地図から旧道の初代・2代鎌倉街道の表示が描かれていません!!

残念です!!

街道の歴史に大変重要な道・橋の表示がされないのは地図作成者のその地域の地理・歴史の認識がなされていない事の結果ではないでしょうか!!
現在の旧鎌倉街道を南から北方向を望む!!

対岸の護岸から北方向に川が流れていたのではないかと思われます。
松本橋・昭和10年2月竣工の表記あり。

大正10年の地図には橋が描かれているので、この橋は2代目の橋なのかもしれません。

                     「写真9」に戻る


 G 岡本橋記念碑
この橋の西側は昔は「松本村」と呼ばれていた所です。

今は港南中央通・港南1-6丁目と何と味気ない町名になってしまったのでしょうか。

松本村・雑色村・関村が合併して笹下村となり、明治22年町村合併で笹下村と日野村が合併して日下村となったが、昭和2年横浜市に編入してまた中区笹下町・日野町として復活したのでした。

松本は編入後、笹下町の字名で「東松本・西松本」して残りました。

しかし今は「松本橋」にかろうじて松本の名称を残すのみとなりました。(上記のF写真)

                      「写真10」に戻る

      大正10年(1922年)測量
    1/2.5万地形図 「戸塚」 陸地測量部発行 


H なぞの港南中学校


1/2.5万地形図「戸塚」 昭和23年資料修正
地理調査所発行

出展元は不明です。
(たぶん創立50周年記念誌では?)

1998年港南中学校航空写真


1/2.5万地形図「戸塚」 平成5年修正測量
国土地理院発行
昭和22年5月5日に新制中学として開校したそうです。
この時、横浜市内で43校が同時に開校し、港南区の範囲ではただ1校だけだったそうです。

開校当初は南小学校に間借りしての開校だったそうです。

昭和24年6月20日に現在の場所に校舎が完成との事で昭和23年の地図には表示されていません。

昭和26年には河川改修が完成したので、この川を挟んだ学校は2年間だけでした。
それでも日本広しと言えども、この様な学校はここだけではないでしょうか?

昭和26年に資料修正の1/2.5万地形図が発行されているので、もしかすると表示されているかもしれません。
調べて見たいと考えています。
                                                     「写真11」に戻る


I 120年前の風景画

日本地図センター発行 1/2万地形図 上大岡村 (明治15年測量)
  (陸軍参謀本部測量・1/2万迅速図原図復刻版)を使用)

”(イ)上大岡村縣里道三分路”と書かれている


 1/2万地形図 上大岡村 
(明治15年測量)
畑はオレンジ色に着色し、
畑と注記した。
右上から左下にかけてかなさわ道が走り左上に道が分かれていてかまくら道になります。

地図の家が写真の様に忠実に、生き生きと描かれていますね。畑では収穫が終わり、陸稲ではないかと思われます。刈り取った後が判ります。

右に描かれている雪だるまみたいな物は何なのでしょうか?実に不思議なものですね!!

判る方は教えてください。

          「写真12」に戻る


J 三反歩の池


(資料出展:港南の歴史 港南の歴史発刊実行委員会 
昭和54年発行)

三反歩の池・一反歩の池は浅い谷を堰き止めて造った灌漑用水用の溜め池で、上大岡の盆地状になったところの水田を潤す為の水として利用されていたのでした。

 大正10年(1922年)測量
    1/2.5万地形図「戸塚」 陸地測量部発行   
畑は薄いオレンジ色に、
水田は薄い緑色で着色した。

右上の地図は大正10年の地形図を水田と畑を色分けしてみました。当時の上大岡の風景が浮んで来ますね!!

また大岡川の自然堤防の微高地に畑が作られていて、その真中をかなさわ道が通っているのが良く判ります。

右の写真は”港南の歴史”に掲載されている明治時代の上大岡駅付近での田植えの写真で、今では想像もつかない様な風景ですね!!

右上に薄く盛り上がっている森がきっと鹿島神社の所ではないかと思われます。地図で想像された景色と一致します。
その森のすぐ下に”三反歩の池”がありました。
きっとこの時の田植えの水にも使われていたのでしょう!!

                       「写真13」に戻る

 明治36年頃の上大岡駅前付近

 (資料出展:港南の歴史 港南の歴史発刊実行委員会 昭和54年発行)

  「開通から9年目の上大岡駅周辺地図」に戻る


K なぞの病院と火葬場


 大正10年(1922年)測量
1/2.5万地形図「戸塚」
 陸地測量部発行

【図式】

良く見ないと見落としてしまいそうな神社・病院記号ですね!!
”港南の歴史”によると伝染病避病舎だったそうです。

大岡川村時代に使われていたのでしょうか?

この時代は伝染病が多かったのでしょう。村単位で避病院が造られていたのではないでしょうか。
村はずれに造られたはずですね!!

当時の図式によると病院とは別に避病院が別の記号で表現されている事が、いかに多くの避病院があった事の証明でしょうね!!


(資料出展:港南の歴史 港南の歴史発刊実行
委員会 昭和54年発行)

      伝染病避病舎と火葬場の関係?

 大正10年の地形図に伝染病避病舎と火葬場が、
 上大岡の地にあったのは偶然なのか?
 それとも関連があるのか、いずれにしても辺鄙な所に
 造られる施設である事は間違いありません。
 その頃の上大岡地域の状況を良く現しているのでしょう。

 火葬場は大正6年大岡川村営として完成したらしい。
 伝染病避病舎については、はっきりしません。

        〔明治の避病院について〕
 明治にはいって最初のコレラが明治10年9月に横浜に
 発生したそうです。
 「ヒビョーインは、戸板で入って戸板で出る」といわれ、
 伝染病の疑いがあっただけで強制入院となり、
 退院は火葬場に向う戸板に乗るときだけというあり様
 だったそうです
 避病院と火葬場がは当時の村ごとにあったそうです。
       【出展元:新編横浜霊異記 第18話 避病院跡】

 大正12年の関東大震災をきっかけに腸チフスが流行し、
 翌年松本村の笠原家の長男栄太郎氏が腸チフスの罹り、
 上大岡村はずれの避病院で治療を受けた
 が亡くなったとの話が本に記載されています。
       【出展元:横浜経済の語り部たち・
        横浜の産業人と消えかかる記憶 内海孝著】

                       「写真14」に戻る


 大正10年(1922年)測量
  1/2.5万地形図「戸塚」 陸地測量部発行

L 江戸時代の上大岡村

出展資料 【上大岡村絵図 (江戸時代)】
横浜市歴史博物館蔵
”村と名主-武蔵国久良岐郡上大岡村”より

上図・”水路跡”の矢印箇所
    とても色鮮やかな絵地図です!!
今の地図の色使いに参考にしたい程ですね!!
道路→朱色 (道がハッキリ浮き上がって見えますね)
水田→青っぽい黒色
畑 →薄い茶色
山林→薄い黒色に松の木の絵が描かれている
家→民家黒色 (屋根の色でだれの旗本領かが判る)
   黒色(屋根色)→橋倉氏領で名主が北見家
   白色(屋根色)→荒川氏領で名主が山野井家
   赤色→神社・寺
水路→川の流れの様に波型で描かれている。

地図の水色丸が写真の北見家です。

左の写真の所は上図水路が道路から離れていく所で、現在はここで歩道が急に狭くなっている事で判ります。

                   「写真15」に戻る


M 湘南電気鉄道の開通


昭和26年の上大岡駅
(資料出展:港南の歴史 港南の歴史発刊実行
委員会 昭和54年発行)
京浜急行の前身である湘南電気鉄道が開通したのは、昭和5年(1930年)4月1日でした。当時開通した区間は黄金町〜浦賀間と金沢八景〜湘南逗子間でした。翌年(1931年)12月には、京浜電気鉄道と日ノ出町で接続を果たし、横浜〜浦賀間の直通運転を開始したそうです。

開通と同時に上大岡駅も現在の位置に開業したそうです。ですから開業75年位になるのですね。

当初の計画では上大岡を通らず蒔田町→屏風ヶ浦村→金沢村を通る予定だったそうです。たぶん蒔田から岡村の方を通る計画であったのではと考えられますがはっきり判りません。(今後調べたいと思っています)

左の写真は昭和26年10月に急行待避設備(上下線別ホーム)が完成し特急・急行電車と普通電車の接続駅になった時の写真と思われます。

この特急・急行の停車駅となった事がその後の上大岡駅の発展に大きなインパクトだったのではないでしょうか。

ハマちゃんも昭和31年に小学一年生で上大岡に引越して来たので、この写真の雰囲気を良く覚えています。のんびりとしたのどかで良き時代でした!!
    
    開通から9年目の上大岡駅周辺地図


赤丸から矢印方向が写真の撮影した位置と方向です。
開通からまだ9年後(昭和14年)の地図なので、開通当時の上大岡駅周辺の様子がとても良く判りますね!!

「港南の歴史」によると、”現在繁華街となっている駅前周辺は、当時は大岡川に沿った湿地帯で一面の水田地帯であった。その東側の丘の中腹に小さな駅舎の上大岡駅がポツンと置かれ、水田の中を横切る築堤高架の上を深紅の電車が一両、レールの音を響かせながら走っていた”との記載があり、右の地図を見るとあまりにも文章とピッタリ一致するのには驚かされます!!

さらに「THE・再開発-横浜市上大岡の記録-」によると、上大岡駅から刑務所(昭和11年完成)に通っていた職員の話として
”上大岡駅より、刑務所までの、旧道に居並ぶなだらな店舗、その裏の住宅を除いて、全て田んぼ、そして秋には葦が茂るのが目立ち、駅より一目で刑務所の存在を知る事が出来た”との記載がありました。

”また、当時の上大岡の風物詩として、田んぼで泳ぐ金魚の話がある。大雨が降ると、丘の中腹にあった野本金魚池の金魚や鯉が氾濫と共に逃げ出したもので、これを捕るのが大人やも子供も楽しみの一つだった。”
との記載もされていて、地図から想像される情景が浮かんで来る様ですね!!

なお地図上での上大岡駅の駅名の表示が「かみおほをか」と書かれているのが判ります。現在は「かみおおおか」です。たぶん旧仮名使いの違いではないでしょうか?

出展資料 【THE・再開発-横浜市上大岡の記録- 上大岡駅前再開発協議会 平成9年発行を参照】

参謀本部陸地測量部 1/1万地形図
「上大岡」 昭和14年修正測量
【明治前期・昭和前期 横浜都市地図
柏書房株ュ行】より

                 「写真16」に戻る

 昭和15年〜17年の上大岡駅の地図へ戻る


N 大岡川からの用水路

出展資料 【上大岡村絵図 (明治初期)】
横浜市歴史博物館蔵
”村と名主-武蔵国久良岐郡上大岡村”より

1/2500地形図
横浜市都市計画局発行
 「上大岡」 平成4年測量

出展資料 【上大岡村絵図 (明治初期)】
横浜市歴史博物館蔵
”村と名主-武蔵国久良岐郡上大岡村”より

江戸時代に上大岡村の田畑を潤す為、関の下交番辺りに大岡川を堰き止めて水を引き込んでいたのでした。

左の地図はその関の下の大岡川が大きく蛇行した所(現在の関の下交番付近)から用水路が流れ出ている事が判ります。

昭和の始めの頃までは大岡川はよく水がでたし、大久保に行くのに船を使った事もあった。人が流されたり、大久保橋から飛び込み自殺者が出るほど水の量が多かったそうです。

【出展資料:THE・再開発-横浜市上大岡の記録- 上大岡駅前再開発協議会 平成9年発行を参照】

今の水量では水位が低すぎて堰き止められなかったでしょう。現在の水量からは想像できない話ですね!!周辺の山々が宅地化され川に水が流れなくなってしまった為(下水道に流れて)でしょうか?

の位置が「写真17」のところです。

                    「写真17」に戻る


 O なぜ道祖神の場所が変わったの?


明治15年(1882年)測量
1/2万迅速図・上大岡村

湘南電気鉄道の計画路線上に地蔵堂(左地図【1882年】の緑丸のところに有る墓地記号が描かれている)があった。
その地蔵堂の敷地が買収されて現在の位置(下地図【1931年〜1942年の間の地図】の赤丸墓地記号が描かれている)にあった榎の大木の根元に祠が移されたそうです。

 出展資料
【こうなん道ばたの風土記: 港南の歴史研究会 平成11年発行】

     なぜ上大岡駅がここに出来てのか?

どうして駅がこの場所に計画されてかは、はっきり記載されている文献が見つからなかったのでハマちゃんが独断と偏見で推測してみました。

上大岡駅の北側も南側も直ぐに低地である水田の中を走っています。なるべく計画路線は人家が無く、水田で買収費も安くすむ所を選んでいったのではないかと思われます。

ただし、駅は低地である水害の見舞われやすい水田の中に造る訳にはいかず、弘明寺駅からの駅間距離からして上大岡辺りにも造る必要があったのでしょう。そうすると必然的に山麓緩斜面であり、鎌倉街道が近くに通っていた現在の位置に決まったのではないかと想像します。

5千分の1横浜市地形図 「磯子」
昭和28年 横浜市発行
【明治前期・昭和前期 横浜都市地図
柏書房株ュ行】より
  1/5000地形図の測量年度はいつか?

この1/5000横浜市地形図は昭和28年発行ですが、測量年度は戦前の1/3000横浜市地形図を戦後編集して1/5000にした地図だそうです。

いつ頃の測量年度かはハッキリしません。しかしいくつかの地図上の情報を分析するとある程度時期を特定する事が出来ます。
1.区名が中区表示になっている。
 (大岡川村が横浜市中区に編入されたのが昭和2年で分区し て南区になるのが昭和18年です)
2.湘南電気鉄道が開通したのが昭和5年です。
3.下記の地形図を比較すると赤丸部分の道路(拡幅・延長)が 昭 和14年測量図では記載されていない事が判ります。

結論として、この地図は昭和15年〜昭和17年までの3年間に測量されたものと考えられます。

赤破線の形状が大体の旧森道の位置です。ちょうど地蔵堂(緑の墓地記号)があった辺りに鉄道が牽かれた事が判ります。

駅は◎15.70と書かれた道路から2〜3m低い位置に水平に整地された所に造られました(切土記号があり)昭和30年代ハマちゃんが小学生時代はたぶんこの状態の駅の高さのままだったと思います。

この当時のホームの長さはスケールアップすると約40mである事が判ります。1両が18mとして2両分のホームであったのではないでしょうか。
昭和26年10月に急行待避設備(上下線別ホーム)が完成するまでは、島式ホーム一本だけの田舎の駅だったのですね。

5千分の1横浜市地形図 「磯子」
昭和28年 横浜市発行
【明治前期・昭和前期 横浜都市地図
柏書房株ュ行】より

参謀本部陸地測量部 1/1万地形図
「上大岡」 昭和14年修正測量
【明治前期・昭和前期 横浜都市地図
柏書房株ュ行】より
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